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趣味の読書007_「論理的思考」の文化的基盤(渡邉雅子)

ゆる言語学ラジオでちょっと前に取り上げられていた、「論理的」な作文や推論形式が、いかなる文化的基盤を持つかを、ごく単純な四象限に乗せて分析した意欲作。

系列的にはポストモダンな分析になると思っていたのだが、序盤の分析には特にそういう系譜に乗せての位置づけはなされておらず、ウェーバーやルーマンといった、ごく一般的かつ硬派な社会・経済分析の系譜として位置づけがなされている(※この評価には、著者の偏見が含まれています)。実際分析としては、脱構築的な手段は一切ない。アメリカ、フランス、イラン、日本の作文教育と歴史教育の手法を、実地の視察や録画を通した観察と、使用されている教科書の丁寧な読み込みだけで、極めて「説得的」に、論理性がいかに文化的に構築されたものかを論証している。

論証や推論の形式(本書では「スタイル」と呼ぶ)の分析を、まずは教育の目的を「技術」と「価値」に分割することから始める。前者は知識や技能の獲得が目的であり、後者はより抽象的な人格の涵養が目的になる。もう一つの軸は「経験的知識」「体系的知識」という目的達成の手段の分割で、前者は帰納的、主観性を重視するもので、後者は演繹的、客観性を重視する。
結構大胆な分割だとちょっと感じたが、本書では言及されてなかったが、今考えれば、特に後者の分割は、イギリス経験論と大陸合理論の比較であって、特に新規な分割法ではないと、これを書きながらようやく気づいた。前者も、社会の様々な諸相に対する「実践」のための教育と、社会の様々な諸相に対する「態度の薫陶」のための教育という区分で考えればわかりやすいのかもしれない。いずれにせよ、単純な4区分だが、奇をてらった区分ではない、むしろかなり手堅い区分法だといえるだろう。
そして、技術×経験=経済原理(アメリカ的)、技術×体系=法技術原理(イラン的)、価値×経験=社会原理(日本的)、価値×体系=政治原理(フランス)としたうえで、各地域の作文教育法と歴史教育の手法から、どのように文章を作成させるのか(「良い」文章がいかに定義されるか)、そして歴史展開からいかに推論を展開すればよいか(「論理」をいかに語るか)の差異が、どのように生まれるかを丁寧に描いている。

まず興味深いのが、基本的に各原理の歴史は大して長くないことだ。米国の形式は、ベトナム戦争後に大学生が急増したことから、コンパクトに採点するための技術として編み出された、とされている。日本、フランスも、遡ってもせいぜい20世紀初頭であり、所詮は近代産業革命、そして教育の一般化の流れの中での生まれである。儒教やキリスト教的価値観等とは、直接的には結びつけられていない(あるいは、結びつけてもいいんだろうが、そんな結合性が曖昧な議論に飛びつかなかった、ともいえる)。ただし、法技術原理については、ややイランの、詩と宗教を極めて重視する特殊な環境を重視している。
また、この4つの原理は、順番にその内容が紹介されていくのだが、正直読んでいる間は、どれが良い教授法だとか、納得感があるだとか、比較することがなかなか出来なかった。アメリカのところを読んでいるうちは、「アメリカはすげえな」と憧れ、フランスのところは「やっぱ現代民主主義を産んだ国の教育だな」と感心し、イランについては「宗教じみててもこういう背景があるのか」と納得し、日本については「案外きちんと考えてカリキュラム組まれてたのか」と振り返させられる。
もともと自分が、「論理的」ということに懐疑的な質なので――というか、「論理的」であることを振りかざす人が苦手で、「それってあんたの好みだろ」と割と頻繁に思ってしまう人間なので、その意味では、本書の考え方にもともとシンパシーが強かったのかもしれない。ただ、そもそも異国の教育事情を学ぶ機会ってあんまりない。というか、同じ国でも異なる世代がどのような教育を受けたのかすら、自分で知ることは、教員でもない限り殆ど無いと思う。というか、教育って(近代では)みんなが「受けた」経験はあるからなんとなく一家言ある感じになるという印象なんだが、「比較した」経験はなかなかないと思う。子どもが小学校や中学校に通っていて、その勉強をみていたとしても、教科書に書いてある内容の少々の際に気がつくくらい(鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わってたとか)で、どのように教師が発信し、生徒が受け止めているかのライブ感は、そうそう学べるものではないし、それを分析的に比較するのもかなり困難(知的に難しいだけでなく、経験的にも稀)だと思う。そうした意味で、本書は、単に「教育がどのように違うのか」という素朴な知的好奇心を満たすという意味でも、十分読む価値がある本である。

本書を読めば、巷間喧しい「結論から話す」「主張を一本道で示す」ことが「優れた論文」という、アメリカ的経済原理的な論理構成が、いかに一面的なものかも、よく分かると思う。別にそうした手法が悪いわけでも劣っているわけでもないのだが、法技術原理、政治原理、社会原理にもそれぞれに目的と手法があり、それぞれにより適合的な文脈と環境がある。「授業の感想」を書くのは、日本人以外の学生が書くのが案外難しい、というのは、まさにその端的な例だろう。「感想を書く」のが経済上なんの意味もない、とまで主張するなら話は別だが、少なくとも個人的経験として、「個人の感想」をざっくばらんに書いたり読んだりすることは、ブレインストーミングとしても、社交上も、そしてアネクドートの社会分析としても、決して無駄な取り組みではないという確信がある。その意味で、日本的な感想をダラダラ書くことの意義も楽しみも、直感的には感じているのだけれど、それが(米国式エッセイと同じ地平で)合理性と歴史を有しているというのが分かったのも、嬉しい発見であった。

理想論的には、本書の4種類の「論理性」を使い分けられるのが、グローバルで多様性が求められる現代の能力なのかもしれない。というか、相手の論理性そのものを脱構築できるという時点で、論破ごっこをするには相当強力な武器となる。冒頭書いたとおり、こうしたポストモダンな文脈には本書は一切位置づけていないが、そういう悪用も可能な本だ。「あなたのロジックって〇〇原理でしかないですよね」「別の原理で証明してみろよ」とか言っとけば、とりあえずジャブ撃った感じにはなるし。

あえてケチを付けるなら、結構主要な分析箇所について、自己引用が多いことだろうか。
他に類似の分析をしている人も少ないのかもしれないが(なんとなくだが、著者は日本語、英語、フランス語の少なくとも3言語は極めて堪能なんだと思う。論文著者名がWatanabe Masako Ema、となってるし、帰国子女とか洗礼名とか、やや特殊なバックボーンがある気がする)、こんな面白い分析を、著者一人だけがやっているのは非常にもったいない。是非本書の分析を皮切りに、教育文化比較分析がより豊穣になってほしいと思う。

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