得手不絵手
「言語化」という右手が、
本来の利き手だったのだろうか。
絵筆を持つ左手で、描きたい絵があった。
あったはずなのだ。
6Bの鉛筆、ぺんてるのクレヨン、スケッチブックを広げて。
頭の中に浮かんだものを、描き出してゆく。
違う違う、左手で、絵筆で描くんだ。
もっと、こう。
違うんだ、左手の絵筆で。
キャンバスに、スケッチブックに。
いつの間にこんなにぎこちなくなったのか。
いや元々、こんなだったか。
右手の「言語化」が、スムースな気がしてならない。
noteを綴るようになって、私の「言語化」は磨かれているように思う。出来事や情景を、言葉として綴ること、滑らかにスルスルと書ける時がある。そして、その言葉によって脳内にそれを想像させること、の方が遥かに美しい絵を描いていく。
絵は、「言語化」しようのない印象や気配や心情を、そこに、もっと、直接広げるのに。
ばしゃーっと。
ぶわぁーっと。
ふわぁっと。
「思考」よりも「感覚」を。
いつしか「言語化」しないと収まりが悪く、つい「言葉」で表現しようとする自分がいる。
右利きの人間が、左手のぎこちなさに、歯がゆさに、右手をつい使うように。
落ちつけ。
左手の絵筆で描いてたはずだ。
不器用でも、好き勝手に。
クレヨンと、鉛筆を持ったまま、広げたスケッチブックを前に。
ああ、もうっ。
「思考」が「感覚」を制御する。
見るもの触るもの感じるもの思うもの、
「思考」が「言葉」にしようとする。
「感覚」を「感情」を「絵」にしたいのに。
脳ミソを色水に漬けたらいいのだろう。
目を瞑って、手を動かせばいいのだろう。
喉をミュートにしたらいいのだろう。
目をシャッターにしたらいいのだろう。
耳をサラウンドにしたらいいのだろう。
心に夢を見させたらいいのだろう。
右手を縛り付けて。
不器用な左手の絵筆を好き勝手に。
利き手は、
右手なのは
うすうす、わかっているけれど
それでも。
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