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得手不絵手

「言語化」という右手が、
本来の利き手だったのだろうか。

絵筆を持つ左手で、描きたい絵があった。
あったはずなのだ。
6Bの鉛筆、ぺんてるのクレヨン、スケッチブックを広げて。
頭の中に浮かんだものを、描き出してゆく。

窓枠と、そこに座った黒猫のシルエット
奥には、四季を…たとえば、桜…
もしくは、夕陽の沈む海…蟹がいて…

つい右手に鉛筆を持つ。

違う違う、左手で、絵筆で描くんだ。

もっと、こう。

鳳凰のような紫と薄紅の羽、柳がゆれ、沢がながれ、ふわりとしたヒレの金魚が…

滑らかに右手が言葉を綴る。

違うんだ、左手の絵筆で。

キャンバスに、スケッチブックに。

いつの間にこんなにぎこちなくなったのか。
いや元々、こんなだったか。

右手の「言語化」が、スムースな気がしてならない。


noteを綴るようになって、私の「言語化」は磨かれているように思う。出来事や情景を、言葉として綴ること、滑らかにスルスルと書ける時がある。そして、その言葉によって脳内にそれを想像させること、の方が遥かに美しい絵を描いていく。

絵は、「言語化」しようのない印象や気配や心情を、そこに、もっと、直接広げるのに。

ばしゃーっと。
ぶわぁーっと。
ふわぁっと。

「思考」よりも「感覚」を。

いつしか「言語化」しないと収まりが悪く、つい「言葉」で表現しようとする自分がいる。
右利きの人間が、左手のぎこちなさに、歯がゆさに、右手をつい使うように。

落ちつけ。
左手の絵筆で描いてたはずだ。
不器用でも、好き勝手に。

クレヨンと、鉛筆を持ったまま、広げたスケッチブックを前に。

「艶やかに黒く、丸まった背中が」
「しっぽをくりんと、懐っこく」

どうしても右手で鉛筆が走る。

ああ、もうっ。

「思考」が「感覚」を制御する。

見るもの触るもの感じるもの思うもの、
「思考」が「言葉」にしようとする。

「感覚」を「感情」を「絵」にしたいのに。

脳ミソを色水に漬けたらいいのだろう。
目を瞑って、手を動かせばいいのだろう。
喉をミュートにしたらいいのだろう。
目をシャッターにしたらいいのだろう。
耳をサラウンドにしたらいいのだろう。

心に夢を見させたらいいのだろう。

右手を縛り付けて。

不器用な左手の絵筆を好き勝手に。

利き手は、
右手なのは
うすうす、わかっているけれど


それでも。


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