退く勇気
絵が売れた。
もう画家を名乗るのをやめよう。そう思う度に絵が買われていく。絵が売れるタイミングって本当に不思議で、毎回「それがなくなった時が本当に退く時なのだ、今はまだ表立って描けと運命が言っている」と錯覚してしまう。そんなわけで騙し騙し今もやっている。
今回もそうだ。私は1週間ほど前から、もう絵画を売るのは次の個展でしばらくお休みしようとしていたのだ。描かねばというプレッシャーから逃れたい。誰からも受けてない圧力から逃れたい。先の見えない不安に押しつぶされそうになり、最近はもう絵を描くことについて考えることすら嫌になっていた。次の個展に新作を置くつもりはあまりなく、描けたら置こう。そのくらいの気持ちだった。今まで頑張って描いてきた小作品を出来るだけ沢山の人に、気に入ったら気軽に手に取りやすい価格で持ち帰ってもらおう。そう思っていたし、今もその気持ちは変わらない。
幸か不幸か私は絵画以外にも楽しい創作活動の手段を沢山持っている。そしてそれはモノを生み出すことという点にとっては、私は変わらないと思っているし、自分に及ぼす効果もそこまで大差ないと感じている。昔から漫画を描くのは好きだし、最近は手芸や料理にも少し興味が湧いてきた。自粛期間に買ったベースも何曲か弾けるようになってきたし。やりたいことは尽きないのである。
まだ行っていなかったとして、今これに手を付けるか
そもそも私は「画家」になりたかったのだろうか?
悩み惑うといつもこの疑問にたどり着く。答えは否、である。こういうことを言うと「言ってるうちに本物になるのよ」みたいな的外れなアドバイスを受けることもあるが、そう言うことではない。「私は“画家”になりたいと思ったことはない」。ただそれだけのことである。それの何がいけないのか未だにわからない。
「まだ行っていなかったとして、今これに手を付けるか」については、絵を描くかという疑問として捉えるとイエスなのだが、画家を名乗ってアカウントを立ち上げるかというとノーである。だから早く閉じた方がいいのかもしれないとこの記事を読んで思いました。
将来の夢ってなんだ?
以前少し書いたことがあるが私はいつも「夢」を聞かれると困ってしまう。やりたい事はたくさんあるが“なりたいもの”は何もないかもしれないなんてことを思ったりもする。
私がどうしていいかわからなくなった時は大体「自分は何者なのか」わからなくなってしまった時である。何者であるか、なんてものは曖昧でいいはずなのだが、人は人を認識するために肩書きを求める。
SNSのプロフィール欄なんてその代表的なモノであると思う。ちなみに私はこう書いている。
画家です。なんて全然書きたくないんだけど、なんか書かなくてはいけない気がして書いている。一体誰に向かって気を遣っているのか?なんのために畏まっているのか?たまにそういうことで狂いそうになる。
見えるところにいないとゼロになる時代
画家と名乗らなくったって絵を描いていてもいいはずなのだが、わかりやすく画家と名乗り、それらしい体裁を保って、出来るだけこまめにSNSを更新することを心掛け、虚空に向かって気を遣っている。
好きな女性のYouTuberが妊娠しているのだが、この間配信で「みんなに忘れられちゃうのが怖いけど体調もあって更新もできないしそれが何よりもつらい」と言うようなことを言っていて、私は深く頷いてしまった。彼女と私の発信力の差は天と地の差ほどあるけど、それって現代の…特に発信側の人は多かれ少なかれ思っていることだろうと思う。
親身にしている友達を2週間TLで見かけなかったとて、その友達のことは忘れない。しかしインターネット上でしか知らない人はどうだろうか。沢山お話ししている人とかは別かもしれない。でも会話もなく一方的にフォローしているだけだとしたら。その人のことがどんなに気に入ったり尊敬していたりしていたとしても、私はまたその人と[接触]する機会があるまで[忘れて]しまうだろう。
一億総発信時代とはいうが、「発信していること」を意識してアカウントを動かしている人間というのはイメージよりも案外少ないのかもしれない…というのが最近の見解である。そんななかでインターネットの意識の集合体のようなものを意識し続けることに私は疲れてしまったのだった。
ボーッとしていると吉報が届くのはなぜなのだろう、今は只々そういう気持ちだ。果報は寝て待て、ってやつ?この文章を打っていたらまた売約の相談と、街中で私のグッズを使用してる人を見かけたという連絡が入った。喜ばしいことである。いつだって応援してくれる人はありがたい。それを重荷に感じたことは一度もない。褒められると伸びるタイプなので。
私は今この上ない幸福と絶望でないまぜになっている。
あーあ、こんなのまるで画家のようだ、なんて思う。