ジル・ドゥルーズ著『フーコー』を読んで

はじめに
 私がジル・ドゥルーズのことが気になったのは、郡司ペギオ幸夫さんの『いきものとなまもの哲学』を読んだからなのか、アンリ・ベルクソンの『記憶と生』を読んでいたからなのか、それとも『動きすぎてはいけない』を通読出来なかったからなのか、そのきっかけは忘れてしまいましたが、『差異と反復』や『意味の倫理学』、『千のプラトー』や『アンチ・オイディプス』が読みたくてという感じではなかったと思います(もちろんこれらの本が読めたらいいなあという憧れはずっとあります)。それは、どこかシステム論のような雰囲気をうっすらと感じていたけれど、なんだか沢山の哲学者の話が出てくる難解な文章を書く人で近づき難いという印象があり、気になるけれどなかなか手を出せない人だったと思います(余談ですが、私は中島らもさんが大好きなので、中島らもさんの友人でありEP-4のメンバーでもある鈴木創士さんのお名前が何かと出てくる人という印象をドゥールズに勝手に抱いています)。

誤読を恐れずに読んでみれば
 ドゥルーズに触れるきっかけは、千葉雅也さんの『勉強の哲学』や『ライティングの哲学』を読み直して、今なら『動きすぎてはいけない』を通読出来るかもしれないなんて思ってしまったからだと思います。その後、『ドゥルーズー解けない問いを生きる』を読んで檜垣立哉先生の文章には私自身が救われるようなところがありズブズブとはまっていった記憶があります。
 元々、真面目な読者ではなく、読者としての体力もないこともあり有名な著作は諦め、出来る限り短い論考から理解しようとしました。そこで『無人島1953-1968』の「無人島の原因と理由」から少しずつ理解していくことにしました。その時に、『ドゥルーズー没後10年、入門のために』と『ドゥルーズー没後20年 新たなる転回』という河出書房新社のムック誌がブックガイドとして非常に役に立ちました。『増補新版ドゥルーズキーワード89』も手元にあると心強いです。分からないなりに読んでいると、どうやらドゥールズという人は哲学者がどのように考えていたかを本人よりも、上手く要約し解説してしまうことが分かってきました。そして、それを換骨奪胎するかのように、一貫したドゥルーズ自身の哲学を表現しているように読めるようになってきたのです。

『フーコー』と『襞ーライプニッツの哲学』
 『記号と事件1972-1990』というインタビュー形式でありながらある意味でドゥルーズによって書かれた文章は、私にはとても読みやすく、他の論考などよりすっとドゥルーズの思考が入ってくる感じがしました。何よりもドゥルーズが他の論考で読み解けないところを解説してくれるような補足文献のように私には感じた。特に、フーコーについては余程の思いがあったのか、フーコー以上にフーコーについて語っているのには驚かされましま(フーコーの主体化について、詳しく説明するドゥルーズの語りは何故か胸が熱くなります)。
 その勢いで『フーコー』を手にしてみると、短いながらも『ベルクソニズム』のように、間接自由話法で、参照とする哲学者に敬意を払いながら、ドゥルーズの哲学が襞というキーワードで展開されていくのに驚かされました。そして、『襞ーライプニッツとバロック』で大きな実を結んだようにみえたのです。このタイミングで、宇野邦一先生の『ドゥルーズー流動の哲学』を読んだら概要が掴め、細かいところが整理される感じがありました。ちなみに、『襞ーライプニッツとバロック』では、ライプニッツだけでなく、ハイデガーやミッシェル・セールの名前がよく出てくるのですが、ミッシェル・セールは『干渉』という著作でライプニッツについて論じています。私の現状では、ミッシェル・セール自身の『干渉』はまだ読めなかったのですが、『干渉』を理解してから『襞ーライプニッツとバロック』を読み直すと、また違った見えた方が出来るかもしれないと考えています。

別の仕方で
 ドゥルーズを読みながら、素人の哲学読者として、現代思想やニューアカにかぶれた世代の人間として強く思ったのは構造主義とは何だったんだろという疑問でした。世界を認識するための、科学とも、モダンの文化とも違う、関係という繋がりから、複雑な事象を読み解こうとする試みはいったい何だったんだろうか、システム論とは何だったんだろうか、内在とは、ひとつの生とは、そんなことを考えながら、システム論は経験を拡張するものだという河本英夫先生の言葉を思い出し、アフォーダンス、オートポイエーシス、内部観測、という流れを飲み込むようなドゥルーズの流動の思考に驚かされるのでした。この辺りは、檜垣立哉先生の日本の京都学派と、ベルクソンとドゥールズを繋げていく論考がとても興味深いと感じています(詳しくは檜垣立哉著『バロックの哲学:反-理性の星座たち』を参照してください)。そして、アラン・バディウが論じるドゥルーズ論は、立場が異なるからこそよりドゥルーズを語っているように感じています(詳しくは宇野邦一編『ドゥルーズ横断』のアラン・バディウ著「ジル・ドゥルーズ『襞ーライプニッツとバロック』」、アラン・バディウ著『ドゥルーズ―存在の喧騒』を参照してください)。
 この2つの問題意識の解像度が高くなると、私の中のドゥルーズ象も、もう少し明瞭になりそうです。ちなみに、アラン・バディウは『有限性の後でー偶然性の必然性についての試論』で有名になったカンタン・メイヤスーの師なんですよね。いい仕事する人だなあと思いました。アラン・バディウ自身はアルセチュールが師だったと思います。フーコーやデリダ、ミッシェル・セールもアルセチュールから学んだようですね。そういえばドゥルーズも「何を構造主義として認めるか」の後半でアルセチュールの名を出していました(アルセチュールに関してはこちらの記事も参考になるかもしれません、現代思潮新社HPより「第77回 病院、アルチュセールのことなど 鈴木創士」)。

おわりに
 思えば、哲学について学んだことのない私にとってドゥルーズを読もうとすることは無謀なことだと長らく考えていました。とはいえ、何故かその存在が気になるドゥルーズが、哲学について教えてくれるようなところもあり(ドゥルーズは哲学者に対する優れた要約者であり、編集者でもあると思います)、ドゥルーズを読むことで、近代以降の構造主義の流れを自分なりに、読み解いていくことはとても興味深い作業となりました。そんな私の今の目標は『カントの批判哲学』を読むことです。とはいえ、「今なら『千のプラトー』や『アンチ・オイディプス』が読めるかもしれないと…」思っている自分がいたりもします。

参考文献
アラン・バディウ『ドゥルーズ―存在の喧騒』河出書房新社
宇野邦一『ドゥルーズー群れと結晶』河出書房新社
宇野邦一『ドゥルーズー流動の哲学』講談社学術文庫
宇野邦一編『ドゥルーズ横断』河出書房新社
河出書房新社編集部『ドゥルーズー没後10年、入門のために』河出書房新社
河出書房新社編集部『ドゥルーズー没後20年 新たなる転回』河出書房新社
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理 』岩波現代全書
小林卓也「ドゥルーズ哲学と言語の問題―『千のプラトー』におけるイェルムスレウ言語学の意義と射程」京都産業大学論集
澤野雅樹『ドゥルーズを活用する!: 自分で考える「道具」としての哲学』彩流社
千葉雅也『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 』河出文庫
檜垣立哉『ドゥルーズー解けない問いを』NHK出版
檜垣立哉『ドゥルーズ入門』ちくま新書
檜垣立哉『バロックの哲学:反-理性の星座たち』岩波書店
芳川泰久・堀千晶『増補新版ドゥールズキーワード89』せりか書房
山内志朗『極限の思想ードゥルーズー内在性の形而上学』講談社選書メチエ

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