赦すことについて
赦すことについて①
たとえ、一度でも赦せたとしても、再び怒りや恐怖が蘇り、身体が反応して、観念に縛られて、赦せなくなることはおかしなことではないでしょう。むしろ、人間として当然の反応だといえるし、一度赦せた体験が偽りだったとは考えなくてもよいと思います。
有限な人間が、無際限に何かを赦すことは不可能です。今の自分が耐えられる範囲で、違和感を濾過していく、安全と脅威の振り子が振り切れないように、少しずつ何かを探索しながら安全に戻りつつ、体験の閾を超えてしまわないように滴定し、体験や身体にふれていく感覚で間違いないでしょう。その為には、安全の確保と、境界の引き直しが必要になります。その過程のなかで、程よい関係性と所属や歓待する空間を持てるようになればよい。そうしているうちに赦しているのだと思います。そう、健忘することができる。過去が過去になり、忘れることができる。そういった状態が赦すことなのかもしれません。
安全な範囲や境界を自己調整しながら濾過していく、安全と脅威の振り子が振り切れないように滴定しながら体験や身体にふれていく感覚で間違いないと思います。その為には、安全の確保と、境界の引き直しが必要になるでしょう。その過程のなかで、程よい関係性や所属や歓待する空間を持てるようになれば、そうしているうちに赦しているはずでしょう。
身体に記憶された傷にふれることは自分で自分の世話をすることかもしれません。それは自分自身を大切にし、関心を持って気を配り、思い遣りや受容の心で自分と接するひとつのケアでしょう。自分を否定する観念は、自分が心地良くなることを許しません。飲食、排泄、入浴、歯磨き、洗濯、掃除、料理は心身が消耗している時はできなくなります。また、誰かをケアする時は、できる限り自分で自分をケアできることを大切にする必要があります。
それは、ケアし過ぎることは、その人がケアする能力を奪うことになるからで、ケアが不均等な力関係にならないように、一方的な力の勾配に配慮しながら支える配分を調整した方がよいでしょう。出過ぎたケアは、相手の範囲や境界に侵襲することになってしまうからです。
そういった意味では、ケアする人に必要なのは関係性の中の自己実現、ケアリングと呼ばれる状態に気を配りながら、自分の無力さと不確実な現実に耐えうることかもしれません。自分を大事にすることは、やってみると難しいのです。
そういった時には、その人の支えになるような存在であること、自分で自分をケアする能力を奪わないように、間接的に関わることが大切になるでしょう。その人が自分で自分を助ける為の、ケアをする方法を見つけたり、身につけることができるようにを支えるたり、環境を整えたりすることが、その人自身の回復に繋がると思います。
赦すことについて②
たとえ、心の底から赦すことを望んでいても、自分ではどうしても許せないことがあると思います。この場合の赦すとは、相手や事件を無罪放免にするとか、加害されたことを不問にすることではありません。言葉で表すことができない体験に関わることなので、それを言葉にしてしまうこと自体が暴力的に作用してしまうことも起こりますが、慎重に言葉にしてみたいと思います。
加害の意図や悪意の有無、災害や事故などの偶然性や必然性に関わらず、その人にとってのあらゆる暴力の体験、そうした境界を侵襲されてしまった出来事から、失われてしまったもの、あったかもしれない未来、未だ訪れていない未決定であったもの、そうした可能性の喪失、自分自身に対する無力感や罪悪感、取り返しのつかなさによる無限に続くかのような苦しみがあります。
そして、自分自身が持たざるものへの羨望や渇望、加害者や出来事に関わる人々への恐怖、恥、怒り、体験後の自分自身の扱われ方、他者との比較、あるいは境界の無さ、私秘性の無さ、所属の無さ、親密性の無さ、そうした事後に起きた取り返しのつかない、自分ではどうにもならなかったことのはずなのに、自分がどうすればよかったのかと自分を問い詰めてしまう自己否定の反芻、理不尽さに対する答えの無さもあるでしょう。
また、自分の意思とは関係なく身体が反応してしまったり、恐ろしい体験やなんだか分からない雰囲気、焦燥感、虚無感、離人感、そういった不安、消えてしまいたいような感覚が突然襲ってくることもあるでしょう。
こうした、言葉にならない、取り返しのつかなさ、どうしようもない無力感と喪失感、苦しみから、逃れたい、解放されたい、もう何もかもを認めて、受け入れて、赦したい、解放されたい、という気持ち。あるいは、助けて欲しい、けれど助けられたくない、矛盾や反転する葛藤もあるでしょう。
助けられるとしたら、それは今までの自分を否定することではないのか、助けられることは自分の無力さを認めることでは、また誰かに支配されるのではという恐怖、そんな二重の不安や恐怖が気持ちや考えを縛りつけるような、そうした苦しみから、もう自由になりたい、楽になりたい、それができるならすべてを赦してしまいたい。そういった意味での赦すことについてです。
そういった意味、あるいは体験や出来事での、赦すことは、自分が赦したいからといって許せるようなものではないものかもしれません。それは、自分だけの意思や能力でどうこうなるものではなく、気づいたら赦していたというような、赦した後に報されるような、気づきの体験になるのではないでしょうか。そして、赦すためには、その人の生存が安全安心できる状態であることが必要だと思います。その状態を4つの様相としてあげてみたいと思います。
※この4つの様相は、山森裕毅「ホームレス考 -〈家がない〉ことの諸相について」(『シリーズ人間科学8 住む・棲む』に収録)を参考にしています。そこでは、ホームレス状態を①壁の無さ、②内密性の無さ、③登録のできなさ、④他人を迎え入れられることのできなさ、という様相で論じられています。
1点目の様相としては、その人の身体、心理、社会に関する適度な境界が安全安心に確保され、自分自身でその境界を訂正できること。2点目の様相としては、その人の感情や考え、これまでの生活史、社会に接するために必要な個人情報など、身体と心理と社会に関する、私的な領域が守られていること、もちろんこの領域の境界もその人自身が決められること。3点目の様相としては、その人が安全安心に、適度な関係性を持てる集団や組織、居場所などに所属できていること、そして、その人自身がその適度な関係に安全安心を感じ所属に充足を感じていること。4点目の様相としては、その人が安全安心して他者を招き入れる時間、場所、そうした招き入れが可能な親密な交流が可能となる場を持てること。こうした4つの様相があげられます。
赦すためには、こうした様相、あるいは安全安心な状態があることが前提になると考えられます。また、1点目の様相はハウジングファーストを含むものであり、2点目の様相は守秘義務や合意形成を含むものであると考えられます。こうした様相や安全安心の状態無しに赦すことは難しく、それをその人以外の人や集団が、その人へ許しを要求すること自体が暴力として働く可能性があると考えられます。
それでは、赦すことは苦しみからの解放の為だけにあるのでしょうか。それだけの為に、4つの様相のような前提が必要なのでしょうか。おそらく、それだけではなく、もう一度、自分自身と、他者と、自分が根づく居場所と関係する為にということがあると思います。
それは、自分が誰と一緒にいたいか、どんな暮らしをしたいかを選ぶことであり、安全な境界の中で、私秘性を守りながら、自分の立場や所属を得て、も他者や社会と親密性を持つことかもしれません。それは、自分の中の様々な立場と、自分が大切にしているものやことに気づくことであり、自分の過去や出自、自分自身の生を赦すことになるでしょう。それは自分自身が幸せになるのを赦すことなのかもしれません。
赦すことについて③
許すことをしたいのに赦せないことや、一度赦したはずなのに許せない思いや感覚に襲われること、これらは個人の決意だけでどうにかなるものではないように思います。赦すことは、その人が安全な状況で、適度な関係を誰かや何かと持ちながら、自らのアイデンティティや自分史を言葉にしながら、自分自身が幸せになることを赦すことになるのではないでしょうか。
ですから、ここでいう赦すことというのは、暴力や支配の罪を許すとか、加害者を無罪放免にするという意味ではありません。赦すことは難しいです。本当は復讐したい、相手も自分と同じ思いをして欲しい、なぜ他でもない自分だけがこんな目に遭うのか、こんな私は存在していいのだろうか、といった様々な存在の前提や世界と信頼の底が外れるような感情や思考に突然襲われることもあるでしょう。
それでも、いや、そういった体験があるからこそ、もうこんな状態や自分からは自由になりたい、解放されたいという思いから、結果として赦すことになる人もいると思います。そうした、赦すことの難しさと同じようなこととして、使命感や責任感といった過去から与えられた役割の手離し難さが伴う動機の源泉があると思います。
たとえば、暴力と支配を振るった者に復讐したい、傍観者と社会を見返したい、発達や成長を正しくしたい、世代間や土地の問題を解決したい、実存と超越性を常に感じていたい、というものがあります。適度に働けば、これらが動機の源泉となったり、他者や社会との繋がりとなるでしょうが、過度に働けば自分自身の健康や幸せを損なうだけでなく、かつての暴力と支配を振るった者と同じやり方で自分自身を傷つけてしまったり、他者や社会との縁を絶つことも起きたりしてしまいます。これでは、暴力と支配の連鎖に縛られている状態になってしまいます。
恨みや憎しみを勉学や創作、資格や進学、出世や結婚などの動機の源泉に変えている人がいます。また、人間よりも、自然や神といったものとの繋がりを大切にする人、自分自身の実存やスピリチュアリティな目覚める人もいます。それ自体は、否定されることではありません。しかし、恨みや憎しみにのまれてしまうことや、過度な使命感や責任感がその人自身を苦しめてしまうこともあるでしょう。恨みや憎しみ、過度な使命感や責任感は、一時的には動機の源泉を生むけれど、能動的ではなく受動的な方法なので、依存的になったり、実際には心身を消耗して慢性的な欠乏状態になってしまうからです。誰かを呪うことは自分を呪うことも同じです。恨み、憎むものと対立するほどに、両者は不思議と似てきてしまうのです。また、過度な使命感や責任感には、どこかに自分なんてどうなってもいいというような、自分を否定する影が潜んでいるように思います。
動き始めのきっかけが、そういった動機だったしても、動きながら、自分自身が健康で幸福な未来に向かうものに変わっていくことが望ましいでしょう。これは依存症からの回復にも通じ、その過程は、アイデンティティや自分史を言葉にしながら、様々な立場から自分を物語ることであったり、回復することやしないこと、何かに向かって進むことを続けるのも辞めることも、自分自身で選択できることが、必要な様相としてあり、それが赦すことに似ているように思います。
一度何かを辞めると、それで資格を失ってしまうように思うこともありますが、辛くなったら休むこともできるし、始めたくなったらまた始めることができます。自分が何かを止めること、中断することは、誰かに負けてしまったように思うこともありますが、再びはじめること、それを自分で決めることができるのです。
それを孤軍奮闘、孤立無援でするのではなく、誰かに助けてもらいながら、その助けてもらったことを、その時にその人に返せなくても、何時か誰かに返せれば、それでもよいと思います。あなたに何かをしてくれた人もまた、誰かに何かをしてもらった人だからです。
多かれ少なかれ、私達は誰かの力を借りて、何かに頼って生きているのです。それが、完全や絶対でないにしろ、それは、世界や他者は常にそこにあり、充足と調和の時を待っているのです。そういった何かを、誰しもが借りて生きているのですから、暴力によってつけられた傷を私だけが所有する必要はなく、何時でも、誰もが、手放すことができるのです。
むしろ、私達全員が、自分の所属する集団や地域で、今そこにいる人だけでなく、今後現れるかもしれない未来の他者も含めた誰もが被害者にも、加害者にも、無関心な傍観者にもならずに済むような共同体を、誰かが安全安心に許すことができる社会を、創っていくことが大切だと思います。それは、当たり前になって気づかれなくなってしまった誰かが受けた不幸や理不尽に気づくことなのかもしれません。
※ここでいう共同体は、野坂祐子「トラウマ・逆境体験を超える治療共同体」(『シリーズ人間科学6 越える・超える』に収録されています)の治療共同体(トラウマインフォームドケア)の意味で使われています。
また、誰もが何かを持っている訳ではありません。持っている人は自分が持っているものに気づけませんし、持っていない人は本来それは持てるはずだったことに気づくことは非常に難しいでしょう。そして、誰しもが何かしらのマイノリティであり、何かしらのマジョリティでもあります。そうした、アイデンティティの複数性や交錯は複雑で見えづらくなっています。
そして、加害者と被害者という立場とは関係なく、暴力や支配といったものが社会構造やテクノロジーに生まれることがあります。それは、個人の範疇を超え、私達、人類が人間として当たり前だと思っていた、道徳や倫理、人権や平和といったものまで破壊してしまう勢いを持っています。戦争や貧困で疲弊した国の市民が犯罪に手を染める、それはあらゆる欠乏のよって飢えているからであり、それは誰かに搾取された事実があるからで、持たざる人達の怒りの声でもあるように見えます。
その声を無視することは、私達のささやかな生活が実は見知らぬ国の誰かから搾取されたものでなりたっており、その事実に目や耳を塞ぐことになるのかもしれません。その為には、私達は複数性に関心を向けつつ、暴力や支配の連鎖から降りることができるような、戸惑い、立ち止まる思考や問いかけが必要で、存在の前提や世界との繋がりを取り戻すことを、奪われた人達だけでなく、自らの問題として知ろうとすることから始めなければならないのかもしれません。
参考文献
エルンスト・ブロッホ 著 小田智敏 訳(1999)『世界という実験 問い、取り出しの諸カテゴリー、実践』法政大学出版局
岡部美香 編著(2021)『シリーズ人間科学6 越える・超える』大阪大学出版会
対馬美千子(2016)『ハンナ・アーレント 世界との和解のこころみ』法政大学出版局
檜垣立哉 編著(2022)『シリーズ人間科学7 棲む・住む』大阪大学出版会
ピーター・A・ラヴィーン(2016)『身体に閉じ込められたトラウマ ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア』星和書店
宮地尚子 編(2003)『トラウマとジェンダー 臨床からの声』金剛出版
宮地尚子(2013)『トラウマ』岩波新書
宮地尚子(2020)『トラウマにふれるー心的外傷の身体論的転回』金剛出版