解離に間接的に与えられたものについての私論
本文
ひとまず解離を意識が狭窄した特殊な注意状態と定義する事が可能かもしれない。そしてシモンドンの系統発生と特異性、ドゥルーズの潜在的/現働的を考慮して意識を考えるならば、自我境界自体が内部/外部を知覚する器官となり、そこに自我/対象備給が関連する。その上で解離障壁について考察できる。
注意の源泉を傾向や志向性にみるならば、面前に現れる現働的な分化/組織化の潜在的にあるものが、傾向や志向性を表現しながら充足へ向かっていると考えることはできないだろうか。その過程から意識が生じるなら、解離は意識的な体験から離脱することで意識に体験させない機能を持っていると考えられる。
意識を体験から離脱することで危険を回避することは、意識、あるいは自伝的記憶の組織化が阻害されてしまうことに繋がる。解離が常態化すると、記憶の障壁が固くなり離隔・区画化が進む。それは解離障壁になると考えることができる。そして自己内の関係性の組織化が阻害されることは、他者との繋がりにも影響する。
単一意識(抑圧)モデルも、多重意識(解離)モデルも、人間の形態を理解する為のモデルだと考えられる。それは人間自身の進化や文明の発展との相互浸透のなかで、主体化された形態の現れの違いだと考えられる。それよりも自己内での持続的な記憶が多重多層的になる矛盾を脱する創造性が重要視される。
おそらく人間には物質層・細胞層・知覚層・情動層・人格層というような多層な時間が流れており、そこに様々なシステムが多重に併存しているとみなすことができる。こうした多重多層な時間の中で、組織された意識のまとまりを自己と考えることができるかもしれない。そこに主観と客観という視座と俯瞰も含まれる。
こうやって解離について考えてみると、知覚と運動、想起と知覚、運動と想起、といったことがどのように分化/組織化されていくかをよくよく検討してみる必要を感じる。また取り込まれた外部という内部が、内的な批判になることと、自己愛と恥についても考えたい。
以上、解離についての個人的な連想でした。
補足
※1 解離についての補足
解離に類似したものとして催眠状態(トランス)があげられる。催眠状態についてはいくつかの定義があるが、ここでは「ある対象に向けられた特殊な意識状態」と定義しておきたい。また、檜垣立哉がドゥルーズを論じる時に用いる「俯瞰」という言葉も類似したものとしてあげられる。特定の視点を持たずに面前の現象に内在する俯瞰と解離の大きな違いは体験と繋がっているかいないかという点だと考えられる。俯瞰は特定の視点を持たないが、面前の出来事と繋がりながらも特定の視点は持たない、解離は特定の視点(視野狭窄の状態と言い換えた方がよいかもしれない)を持っている(いるからこそ)が、面前の出来事から離脱しようとする。つまり出来事に対する繋がりという体験(記憶)が意識されているか、いないのかの違いがあると考えられる。
※2 注意についての補足
注意とはある対象に選択的かつ能動的に向けらるものと、ある対象に受動的かつ選択的に引きつけられるものがあると考えられる。とくに、能動的に注意を向けることは意識の活動に関係しており、注意の向け方を変えることは意識状態にも影響を及ばすと考えられる。また、選択的に注意を向けることは、外界の状況に対しての定位とセットとなっており、そこから方向性が生じていることにも関係している。体験とは、過去の知覚の束から、現在に即した定位を立ち上げつつ、同時に再構成しているという、二重に作動するものだと考えられる。また、脱学習という意味では、受動的かつ選択的な状態の方が、定位が外され新たな学習や再構成が起こりやすいとも考えられる。こうした意識されない学習は蓄積されており、溜まったら自然と現れる。これには、自我境界とエネルギーの使い方と、耐性領域での体験のあり方が関係していると考えられる。
※3 視座についての補足
主観と客観についての前に、意識自体が主体化の形態のひとつであり、事後的なものだと考えられる。それは、何を意識に顕在化するか、何を潜在化するかの選択的であり、この膜のような働きが内部/外部を知覚する器官であり、自我境界であると考えられる。また、注意が向けられるといのは、注意を向けた知覚を意識が受け入れ、自己に取り込み、自己帰属していく自己組織化の過程だと考えることができる。そして、主観と客観という視座は主体化の形態の違いと考えることができる。過度に体験から切り離される体験は、過去に危機に対処した知覚や認識の束が離隔・区画化がされ不随意に反応していると考えられる。
問いの整理
話が散らばってきた感もあるので問いを整理していくと以下の問いがあげられる。
①意思に対する解離の機能とは何か?
体験から意識を切り離すことは、自らの安全を守る対処法であったと考えられる。いわば過剰なエネルギーの消費からブレーカーが落ちやすくなった状態に対して、安全にエネルギーを再分配するには、安全を感じながらのモニタリングと、自らダウンしてしまった危険な状態へのロックダウンを解除できる体験が役に立つと考えられる。この点を検討するには、ミルトン・エリクソンが健忘とカタレプシーをどのように活用したのかを整理していくことが必要である(二段階解離の技法)。
②解離が意識に与える組織化への障害とは何か?
自我境界と恥について考察してみる。恥とは無力感と触れられなさが関係していると考えられる。自己愛というかたちで様々な検討がされているが、人格と社会が交錯するレベルでの恥を、身体の不随意反応や文化・習慣などの異なるレベルでの相互作用として捉えてみて、自己組織化への障害を検討してみる。
③解離のパラドックスとは何か?
自己言及のパラドックスと文脈のパラドックスについてと体験の脱色について考察してみる。シモンドンの系統発生と特異性、ドゥルーズの潜在的/現働的について検討し、河本英夫の二重作動モデルや心理的逆転の概念などを援用して検討してみる必要がある。
キーワード
解離、意識、注意、定位、方向性、傾向、自我境界、解離障壁、離隔・区画化、耐性領域、心理的逆転、自伝的記憶、発達性トラウマ(NARM)、マルチスケールな時間(平井靖史)、二重作動モデル(河本英夫)、自己言及のパラドックスと文脈のパラドックス(郡司ペギオ幸夫)
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