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『シビル・ウォー アメリカ最後の日』をみる

おひさしぶりです。3週間ぶりくらいの更新でございます……。
最近はマクニールの『疫病と世界史』『戦争と世界史』などを読んで、世界史の勉強をしていましたとさ。
SF小説はブラッドベリの『火星年代記』とル=グィンの『世界の誕生日』が手元にあって積読本に。
ひと段落したら読みたい。

それで本題は映画です。
もう公開して何週かたってますがアレックス・ガーランド×A24の新作『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を見てきましたので、それの話をしたいと思います。

(副題がダサいと思うのは、ぼくだけでしょうか?
おそらく『シビル・ウォー』だけだと、某マーベルの映画とかとかぶちゃって、検索性が悪くなるからつけたんだと思うんですが)

いやーしかし、公開して即レビューを投稿できる人はすごいですねー。ぼくも見たのは10日前くらいなのですが、しばらく考えこんじゃってなかなか、感想にならなかった。
というのも『シビル・ウォー』を見たとき、最初に思い出した映画が押井守監督による劇場アニメ『機動警察パトレイバー2The Movie』だったからだ。

『シビル・ウォー』は内戦をモチーフにはしているが、政治的なテーマを追求した映画ではなく、『パト2』のような戦争という風景を主題にした映画なのだと見終わって思った。今日はこの二作を中心に、戦争のイメージについて考えたことをまとめてみた感じです。

まず『シビル・ウォー』の内容について整理しますが、簡単にいうと、アメリカの大統領が本来2期(8年)までの大統領任期を勝手に3期まで延長して、なおかつFBIを解体し、好き放題のファシストと化したので、カルフォルニアとテキサスが西部勢力として手を組み、DCを占拠する大統領と政府軍との間で内戦状態に突入するというもの。

アメリカの政治事情など詳しくないので、パンフレットとか読んで知ったのですが、カルフォルニアとテキサスはそれぞれ民主党と共和党で支持者が多い州で、映画の中で手を組んでいるのはあり得ない設定なのだという。

全く予備知識なしに見に行ったので、内戦の構図がアメリカ人には理解できて日本人にはピンとこない何かなのかな? と思っていたらそうではなく、意図的に開戦理由がぼかされていていたのだった。
つまり監督の意図としては、何で内戦になったか、明日までに考えといてください。ほな。と言うわけです。
たかが映画、そう思ってないですか? それやったら現実にもそうなりますよ。と
そう言うわけなのです。

そもそも、戦争というのは対話の段階が終わって、暴力で決着をつけようというステージのことではないだろうか?
ジェシー・プレモンスが演じた赤いサングラスの軍人は、問答無用で中国籍の男を殺したし、DCに突入した西部勢力は大統領の身の安全を求める交渉人を撃ち殺して先に進むし、対話という手段はいっさい無効化される。
『シビル・ウォー』はアメリカという国のなかにウクライナやガザのような戦場が突如として出現したらどうなるかという思考実験を用いて、極限状況を演出することで、戦争というものを改めて捉え直そうとした映画だとぼくは考える。

単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?
その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。

『機動警察パトレイバー2TheMovie』より

われわれにとって戦争とは何だろう。
20世紀前半の総力戦は国家のすべてを巻き込んでの文字通りの総力戦で、前線で戦う兵士以外の人員は、後方で総力戦を支えるために銃後の守りにつき、日常のすべてが戦争となるようなものだった。

つづく冷戦下では、テレビのモニターに戦争を押し込めて、自分たちのいる場所が戦線の単なる後方であるということを忘れ、どこか遠い国の出来事として消費するというものだった。

そこで『パトレイバー2』が描くのが、柘植というテロリストが、東京の情報網を次々に切断していくことでメディアを麻痺させ、戦場の前線と後方という境目をなくし、東京のど真ん中に“戦争”という状況を一瞬だけ作り出す、この状況を映画で演出することだった。

東京という“平和”な都市に、堂々と戦車やらなんやらが鎮座する風景、その風景自体を見せることが目的となった映画で、本編はテロリストである柘植がしかけるテロと、それを解説する後藤隊長と荒川のダイアローグのみという、奇妙な構成になっている。
押井守が『パト2』で描いたのは、柘植のテロによって戦争という現実が露わになったにも関わらず、結局我々は戦争そのものを認識することができないという絶望だった。

上記の押井論は宇野常寛の『母性のディストピア』やPLANETSの記事などを引用したものです。

そうした現実に対応する映画として、『シビル・ウォー』の描いた戦争とはいかなるものであったか。
主役となるのはキルステン・ダンスト演じるリー・スミスとケイリー・スピーニー演じるジェシー・カレンという二人のジャーナリストだ。
(脱線するけど、ケイリー・スピーニーはキテるよねー。この前エイリアンで見たばっかだわーと思いながら『シビル・ウォー』でも存在感あってよかった)

やはりジャーナリストが主役であるというところがミソであると思う。
彼女たちは凄惨極まる戦場へと生身で赴き、カメラのファインダー越しに現実と対峙する。
これは『パト2』がそうだったように、圧倒的な現実、戦争を前にしては、人はそれと直接対峙することができないという認識の限界も露呈している。
リーとジェシーという二人の人物の決定的な差は、仲間の死に対してとる行動に現れている。
リーは仲間の死を収めた写真を削除し、モニターのなかの現実として出来事を消費することを拒否する。しかしそれが意味するのは、戦争と直接向き合うことを意味し、彼女は戦場のトラウマに苦しみ、ジャーナリズム自体にも意味を見出せなくなってしまうことを意味する。

一方ジェシーは、リーが政府軍に撃たれる瞬間をカメラに納め、そばに駆け寄ることもなく、彼女の屍を越えていく。ジェシーはリーの死をフィルムに収めることを選び、モニターのなかの現実として消費することを選んだ。
大統領の遺体も直接映像では描かれず、ジェシーの撮影した記念写真という形で最後に映し出される。

やっぱり我々は戦争というものを直接認識することはできず、『シビル・ウォー』ではそれをジャーリズムの限界と結論し、戦争を止める力たりえず単なる傍観者という立場しか残されていないという結論を導くように思った。

『パト2』の公開から31年が経過した今となっては、戦争はテロの世紀へと移行し、戦線の前方と後方の境目がもはやなく、テロ行為は都市の中心が直接標的になるような類のものになってきている。これが21世紀の戦争だ。

世界のどんな場所でも戦場に変わる可能性がある。アメリカの都市のど真ん中であろうともそうだ。

もっとも『シビル・ウォー』では押井作品でいうところのテロリスト=演出家はおらず、描かれているのも市街戦がメインで、テロではないため、21世紀の戦争映画とは言えない。
テロリストたちの戦いは、日常性との戦いでもあり、テロを通じて日常を断ち切り、非日常の時間と空間を持ち込むことが彼らの目的だ。
しかし、SNSが普及した現在の情報環境においては、爆弾テロでさえすぐさま日常が吸収してしまい、ウクライナにおいても、ロシアの爆撃にさらされ被害が出る一方で、以前と変わらず日常を過ごす人がいる。
圧倒的なスピードで、戦争を日常に取り込むのだ。

東浩紀の『ウクライナと新しい戦時下』という、元はゲンロンに掲載されたテキストのなかで、ウクライナを訪れた東がそこで見た「戦時下」の光景をこう述べる。

けれども戦時下という圧力は、まるごとその政治と文化の境界を解体してしまう。現在と過去の距離を消してしまう。戦争をグッズやネットミームに変え、過去の犠牲者と自分たちを同一化する物語を作り出してしまう。それがぼくがウクライナで観察した「新しい戦時下」の現実だった。

戦時下のウクライナでは、日本人のぼくたちからすると不謹慎なんじゃないかと思うような、戦争をネタにしたグッズが販売され、その売り上げが寄付金となりウクライナ軍を支援し、美術館では過去のナチスによるホロコーストが、ロシア侵攻と同列に扱われ、状況が要請するものではあると思うんですが、ウクライナ自身のナチス加担、ユダヤ人差別という過去の現実がそのときだけ忘れられてしまう。

さらにウクライナにおいては、ロシア語を話すことがロシアに加担するというジェスチャーに取られるような空気があるらしく、本来は別々のものであるはずの政治と文化が接近し、ロシア語を話すことがイコール、政治的にロシアに同調するという態度になり両者の境界が取り払われてしまう。

『シビル・ウォー』でジェシー・プレモンスが演じた赤いサングラスの軍人が放った名言、「お前はどの種類のアメリカ人だ?」は「新しい戦時下」の問題でもあるような気がして、政治と文化が切り離せなくなり、日常の全てが政治に取り込まれてしまった結果出てきたセリフなのだ。

戦争が日常に、日常が戦場に。
SNSでの戦いが、気づけば本当の戦争へ。
文化による対話をキャンセルし、平和への道を閉ざす戦時下の圧力は、もうすでに近くに存在しているのかもしれない。

「戦争だって?そんなものはとっくに始まってるさ。問題なのは如何にケリをつけるか、それだけだ」

パト2 荒川のセリフ

読んでも読まなくてもいい、余談。

『シビル・ウォー』ではSNSの存在があまり目立ってなかった気がするし、軍人とジャーナリストばかりが登場して一般市民がそんなにフォーカスされないという点が惜しいような気がするが…。
そこらへんの関係をもっと追求した映画とか見てみたいよなぁ。

あと取ってつけたようだけど、戦争映画としては迫力満点で、音響、映像どちらも見応えがあった。すばらしい。
A24は制作スタイルこそ作家主義でインディペンデントだが、勝負している土台はハリウッドの大作映画と同じ土俵なんだと思う。
だから、娯楽として素直にアクションの快楽が存在する。戦争を娯楽にするなんてという議論は昔からありそうだが、別にそれでいいのだ。
ガチの戦争映画を撮ったら、客が入らないからね。『炎628』とかがそうだろう。
ハリウッド映画を見るときは、そこに大衆の無意識の“欲望”を読み取るべきなんだと、最近読んだ本で学んだ。

ガーランド監督も『地獄の黙示録』などを取り上げて、戦争のスペクタクルに寄せすぎているというが、『シビル・ウォー』だって、どうしたってそうだ。
戦場でハイになる人間がいるのも、れっきとした真実なんだろう。
ハイになる戦争映画を撮ることで、如実に人間のそうした真実を暴いている。

宇多丸さんのムービーウォッチメンで筒井康隆の『東海道戦争』を挙げていたのを聞いて、まったくぼくもおんなじことを思っていた笑
『シビル・ウォー』のB面としておすすめ。

現実の戦争が虚構の戦争を模倣し、それをメディアが演出し、大衆が消費する。
オリンピックは幻だった。戦争も幻だった。幻としてか体験しえなかった。

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