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【映画時評】インサイド・ヘッド2

思えばヨロコビ以外の感情はだいたいすべて、ネガティブな感情だ。
イカリ、カナシミ、ビビリ(恐怖)、ムカムカ(嫌悪感)。

思春期をむかえたライリーのもとにはさらに、シンパイとイイナー(羨望)ダリィ(アンニュイ)ハズカシが大挙して押しよせ、リーダーであるヨロコビを追放して、ライリーを操縦しはじめる。

ストーリーは、さまざまな記憶のボールからめばえたり糸があわさって、ライリーの人格を形成している「ジブンラシサの花」をつみとられ、“記憶のはずれ”に捨てられてしまったのを、ヨロコビたちがとりかえし、もとの座におさめるというものだ。

一方アウトサイドヘッドでは、ライリーが高校生のホッケーチームにスカウトされ、入団のための試験としてチームで試合をすることになるが、脳内は例の新たらしい思春期の感情でぐちゃぐちゃ。
ライリーは友達を裏切って先輩に取り入ろうとし、はたしてチームへのスカウトと友情、思春期の自意識はどう決着するのかという問題になる。

前作からしてすばらしいのは、こころの働きをユニークな擬人化と舞台背景でアニメーションにしているところ。それがものすごく正確な表現になっているのが巧みで考えぬかれている点だ。

ぼうだいな経験が記憶のボールとして保存されていて、そのなかでも“とくべつなおもいで”があって、ライリーの性格を象徴する島にむすびついている。

もの忘れをしたときには、記憶のボールが捨てられ、いっぽう無意味に記憶にこびりつくCMソングはいつまでも残っていたりなどする。
心にまつわる概念が、ポップに具現化されていて、クスッとくることこのうえない。

しかし心の擬人化というアイデアだけなら、そう非凡なアイデアではなかっただろう。脳内で複数の自分が会議するみたいなネタはすでにある。
『インサイド・ヘッド』の真のユニークさは、司令室のみで完結しそうな舞台を、外へ拡張して描いたことだと思う。
『インサイド・ヘッド』の主な舞台は司令室の外にあるのだ。

イマジネーションランドと呼ばれる想像の源となる場所があり、司令部へ直行する“思考の列車”が走り、潜在意識の闇には幼いころにトラウマになったピエロが隠れている。

司令部という中心以外に、それぞれの役割を受けもったこころのスペースが存在し、それらすべての場所が一体に組み合わさってひとつのシステム、こころを成している。
その現場を、観客はまえむき一本槍のヨロコビと、ぐずなカナシミの凸凹バディともに発見することになるのだ。極めて知的なつくりになっている。

進化心理学において心は、身体が胃や腸のように専門家された複数の器官で動くように、脳内モジュールの連合、心的器官のあつまりとみなされる。
なんとなく、魂やこころはもやもやした一個のかたまりをイメージしますが、そうした見地からは、こころはバラバラな複数のイメージなのだ。
その点が『インサイド・ヘッド』のこころの見方がまったく新しい点だ。

前作ではカナシミが邪魔者としてあつかわれ、ヨロコビは彼女を遠ざけようとするが、ライリーの幸せのためには、カナシミが必要であることに気づき、ライリーはカナシミを通じて両親と仲直りするという結末が描かれる。

このシンプルなプロットに施された仕かけは、カナシミという一見邪魔な存在の、真の役割を明かすことだ。カナシミとヨロコビの対立を描くためではない。

こうした結末は、作り手が、人生や人間性にまつわる真実を単純化したり歪めたりせず、真摯にむきあった結果だ。うそ偽りのない姿勢を感じる。
カナシミがこころを豊かにするなんていいじゃないか。

続編においてもその精神はひき継がれ、悪役としてやってくるシンパイを、おろそかに扱うことはしない。
ライリーを大人にするのは、幸せな記憶ばかりではなく、恥ずかしさや見栄、孤独といった痛み、人生のノイズ、それをあるがままに受け取ること。

この映画を、ネガティブな感情がポジティブな感情を打倒する物語にすることなく、ネガティブな感情を、心を補償する存在としてえがいたことに、もっとも好感がもてる。

『インサイド・ヘッド2』は前作のコンセプトを見事に拡張した、追加コンテンツという感じ。新キャラたちにそれぞれアイデアが凝らされていて、ちっとも飽きない。
二作とも鑑賞すれば心にかんする新しい世界が、ばっちり理解できるものと思います。

ピクサーの映画は軒並みそうですが、大人にもおすすめできる内容です。
前作で監督を、今作ではプロデューサーを務めたピート・ドクターが、実際に子育てをして得た体験が映画になっていて、初めから視点は大人(親)の方にあるのです。
なのでこれは、子供連れで見に来た親の方を虜にする映画だ。子供たち以外にも強くおすすめする映画です。


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