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【映画時評】箱男
ぼくがメタルギアソリッドのファンなので、『箱男』といえばスネークだ。
敵兵から身をかくすために、ダンボールをかぶってやりすごす特殊工作員の姿は、シュールでまぬけっぽく、象徴的で、絵面のインパクトがとにかく笑える。
そしてこれはすべて安部公房の小説からきているものだった。
本作は安部公房の原作のなかでも、わりかし実験的な小説になると思う。少なくとも『砂の女』よりむずかしい。
むずかしいというか、終盤でだれが主人公なのか視点人物がわからなくなってしまうので読んでいて混乱する。
読んだとき高校生だったぼくには、少なくともそうでした。
石井岳龍監督による『箱男』は、そうした混乱もとりいれつつ、安部公房が生前に残した唯一の注文である「娯楽映画にしてくれ」という言いつけを守り、映像へと翻案された。
元カメラマンで箱男である“わたし”は、ダンボールをかぶって、側面に切りとったのぞき窓から、道ゆく人を観察している。
箱男はダンボールをかたときも脱がず、箱のなかに備えつけた道具で、すべて生活を完結させる。
一見すると世捨て人のようにもみえますが、本質は箱をかぶることで社会への抗議、抵抗を行っているのが箱男という存在です。
さらに、自分の存在を消したいと思って箱をかぶっているのに、ノートを大切にし、ノートに自分の記録をつけて、存在をアピールしているという、矛盾もかかえているのです。
物語の軸は、この“わたし”の箱男というアイデンティティ、優越感が奪われるといいうもので、“わたし”のもとに突如現れた戸山葉子という女性、の足に見とれて、ほいほい彼女の勤め先に行ったかと思えば、彼女はニセ医者と変態の軍医に軟禁されていて、彼女を助けだすということになる。
そして、急に物語の主導権が、ニセ医者と軍医のストーリーに奪われて、“わたし”は物語からしばらく退場してしまう。この二人の医者が、箱男のまねをし始め、箱男の座をかけて決闘する。
二人が消えたあとは、また“わたし”に物語の主導権(箱男のアイデンティティ)がもどり、今度は戸山葉子の挑発をうけて、箱を脱ぎすてる決断をせまられる。
しかし彼女は“わたし”のもとを去り、追いかけていくうちに、無数の箱男たちに囲まれ、凝視されてしまう。
“わたし”のアイデンティティは、一方的に他人をのぞき見る箱男から、無数の他人の目にさらされる存在となり、立場の逆転が起こる。
そしてトドメといわんばかりに、あるセリフが“わたし”から放たれ、鋲をうったかのごとく、この映画のテーマを固定する。
安部公房の原作は、SNSがあたりまえとなった社会に、不思議と呼応する結果になり、姿をかくして、でも一方的に他人のことをのぞきたいという欲望が、人間にとって根源的なものであることを暴くようです。
SNSの存在は、そんな人間の欲望にどこまでも忠実で、最大限期待に応えてくれる便利なツールとして、なおもつかわれている。
ぼくのこのnoteも、かなしいことに、箱男が必死に記録しているあのノートと同等の存在なのです。
だから、ニセ医者が箱男の本質を、姿をかくして他人を見ることではなく、ノートの方に発見するのは、非常にするどく示唆的なセリフです。
最後に安部公房の遺言、「娯楽映画にしてくれ」を石井監督はどんなふうに叶えたのかですが、ひとつはアクション映画にしてしまうということだった。
冒頭で路肩にうち捨てられているダンボールが、ガサっとゆれたかと思うと、ガバッと立ちあがるシーンだけで、とてつもなくおもしろい。動きがおもしろすぎる。
足の生えたダンボールが全力疾走したり、ターンして人混みをかわしたりする。
ワッペン乞食におそわれたときには、ダンボールの横がパカっとひらいて両手で抵抗し、それが変形ロボじみた快感というか、男の子のバカな好奇心をくすぐる。
ガンアクションもあるから、文芸映画だと思わず気軽に見にいってほしい。