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川端康成読んだよ。 『雪国』『伊豆の踊り子』『眠れる美女』『随筆集』

今まで、エロについて考えるのを避けてきた。
友達と下ネタも話さないし、恥ずかしいことだと思っていた。
女性の何が綺麗とか、可愛いとか、あんまり考えたことなかった。

エロスとは一種の感性のようなもので、そこには文学や詩があり、人間に関するなんらかの真実を訴えているものだと思います。

川端康成はそういったものに迫った作家の一人でしょう。
真のエロについて大真面目に考えてみたくなったので、谷崎潤一郎と
迷いましたが、川端康成を読みました。

雪国

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

雪国は36年にわたって改稿がほどこされた小説で、いま文庫で親しまれているのは最終バージョンなんですね。

雪国にあるのは、二人の女性をめぐるドラマと『徒労』というキーワードでしょう。

生産性がなく、無為であること、『徒労』であることが美しい。
何の作意も打算もない、純粋であることが美しいとする観念。

この純粋さというものは、当たり前だけど保つことが難しく、雪国における葉子は行男という恋人を献身的に支えている間は、無私の愛情が存在するものの、行男が死んだ後は、その性格に大きな影を落とすことになります。

主人公である島村も、『徒労』の性格を抱える二人の女性に惹かれるものの、最後まで関わることができません。

島村が惹かれるのは、亡くなった行男という存在をなお愛し続ける「徒労」にあり、葉子を東京に連れて帰ったりしては、その「徒労」の美しさは損なわれてしまう。

葉子の美しさに惹かれるものの、それに触れることはできないというジレンマが、ラストの火事と天の川が流れ込むというラストに決着し、島村の抱える渇望が、女性という対象から、自然そのものにダイナミックにスライドし、何と言えばいいんだろうか、もっと次元が上の悟りを得たような感じでしょうか。

雪国は実に短い小説ですが、濃密な描写が凝縮されており、見かけほどすんなり読むことはできません。読み返すごとに異なる感想が出てきそうです。


伊豆の踊り子

伊豆の踊り子

『伊豆の踊り子』は川端康成の青春時代の実体験を小説化したもので、旅の芸人一座、その踊り子とわたしの出会いと別れが描かれます。

みずみずしい感覚に満ちていて、読後感も切なく爽やかです。

「伊豆踊り子」においても、踊り子という純粋な存在が登場する。
というか純粋なのは当たり前だ。少女だからな。

少女が美しく可憐なのは、純粋で余計なことを知らないからだ。

主人公の私は、もちろんそれに触れられない。
触れてしまえば、透明な水に色水をたらすようなもので、異なる存在に変質してしまうことでしょう。

こういう感覚はアイドルに求めるものと似ているかもしれない。
いくら可愛くても、付き合ったりはできませんよね。

なので私は踊り子と別れを告げ、心の中では純粋なものに心を洗われたという気持ちで終わるのです。

禽獣

川端康成がペットの動物に注ぐ視線というのは、主体性を持った存在としてではなく、景色を眺めるような突き放した感じがある。
その視線はペットばかりでなく、あらゆるもの、女性を見るときの視点にも当てはまる。純粋な美だけを見つめているよう。

眠れる美女

眠れる美女

主人公である江口老人は、「老い」の苦しみを負っている。
老いた男というのは、当然ながら若い女性と肉体関係を結ぶことはできない。

『眠れる美女』においては、薬で眠らせた女の子と添い寝をする、老人たちの秘密のクラブという設定が用意される。

老人たちは美女と添い寝することで、若さ、生き返った心地を体験する。
それは機能を果たせなくなり、用済みとなった老人が慰められているという構図です。

江口老人は、まだ性欲が枯れきっておらず、そこが他の老人と自分とが違う点だと言います。

江口老人はクラブの掟を破り、美女と行為に及びそうになりますが、相手が処女だとわかるとうろたえ、引き下がってしまいます。

ここにあるのも、「雪国」「伊豆の踊り子」から引き継がれる、純粋なものへの憧れが、「老い」という現象から語られているように思う。

散りぬるを

蔦子と滝子という二人の女性が山辺三郎という男に惨殺された。
二人の女性の保護者である語り部は作家で、小説を書いている。

わざとらしい作為のない、純粋な文学というものがあるとしたら、それはどのようなものか。

二人の女性を殺害した男の供述の中に、主人公は純粋な告白をみる。作家という存在は、本当の美しさや純粋さには迫ることができないだろうか。

『眠れる美女』の短編集はこれと『片腕』とを合わせて、全体に諦観や絶望を感じさせます。

川端康成随筆集

末期の眼

あらゆる芸術の極意は、この「末期の眼」であろう。

芥川龍之介が遺書の中で語る「末期の眼」とは、身近に死というものを意識したとき、周りのあらゆるものが美しく見えるという状態だそうだ。

それが一体どういう境地なのか、感覚的に理解するのは難しいですが、死を前にして、はっと物事の本質や隠された美に気づくというのは、あり得ることかもしれない。

川端康成は日本の古典文学から美意識に影響を受け、随筆の中でも『源氏物語』や『枕草子』について取り上げる文がよく出てくる。

古来の文学にある美意識とは『あはれ』とか『詫びさび』といった、
散りゆくもの、移ろいゆくものの寂しさを美しいと感じる心のようなものだろうか。

三島由紀夫による『眠れる美女の』解説のところに、面白い文章があり、
日本の文学を外国人が読み誤る度合いと、現代の日本人が読み誤る度合いとで、それほど大差がないというのだ。

古典的な日本の文学、その美意識と今の私たちの間にある大きな断絶を思うことは、何か興味深いものがあります。

川端康成の小説も、読んでみて、わからないところがあるんですが、その疑問に思う部分が、そのまま失われた感性に他ならないように思えてきます。


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