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『未完の日記 』ー 悲哀な日々を映画のフレームのように切りとって ー

前奏 = Intro

日記の前にこれを読んで欲しい。
「建前上は出版業界(特に本屋、もしくは編集者)で働くことを目指している大学2年生です。大学は色々あり現在は休学中です。本当に目指したいのは、哲学者です。その第一歩にもなるのではないかと思い応募させていただきました。
またこの日記は、僕が社会不安障害と奮闘していた5年間があり(自分の中で、失われた5年という風に呼んでいます)、その期間に書いたものです。
今は無事に完治しましたが、そのような精神疾患に加えてさらにコロナが重なったので、鬱のような状態の時に大学に通いながら書きました。
僕からすると、この日記を読み返す作業というのはそう簡単なことではなく、これを読むことでいわゆるトラウマまでは行かないですか、少し心が苦しくなりましたが、頑張って読み返しました。
また、そのような過去のトラウマ的な記憶や傷を愛すために、作品として残したいなと思ったのも応募させていただいた理由の一つです。
この頃の自分は、かなり感性が研ぎ澄まされており、今客観的に読んでみても本当に自分が書いたのかと驚くと同時によくできた文章だなと思います。自分で言うのもなんですが、素晴らしい日記だなと思いました。今、このような日記を書けと言われてもおそらく書けないと思います。そのいくつかある日記の中でも良いものを3つ選び抜き、少しの訂正を施し、このような形になりました。
そして、その当時のままの未完成な感じを残したく、誤字や脱字以外はほぼ訂正はしていません。たまに空白がありますが、それはおそらくその時の僕が、後でそこになんらかの文章を入れようとしていた証拠です。(なお、この日記はiphoneのメモ帳に情景日記として、『〜身の回りの事、物、特に風景や情景の表現をする〜注:物語を書くわけではなく、ただひたすら情景描写をする』と言うルールの元書いていました。)
この日記が作品として形になり、誰かの心に響けば僕としてはそれほど嬉しいことはありません、略歴が長くなってしまいましが、審査のほどよろしくお願いいたします。」
では、日記へどうぞ。


2022年5月X日(水)

五限に講義がある日。
その前に2、3日前に予約していたカウンセラー室へ向かう。ちょうどカウンセラー室のある保健管理センターの前の廊下で1人の女の子とすれ違う。たしか白い服を着ていたっけ。
顔はみんなマスクをしていてわからない。
最近この世界では、顔を見て得る視覚情報さえも遮断されてしまっている。
プライバシーを守るみたいに。
鼻だけ出していると最近見られるような気もする。普段は出さないようなところを丸出しにしているかのように。
カウンセラー室の目の前には体育館がある。そして、体育館とカウンセラー室のある建物の間には、一階へと降りる階段が。ちょうどそれは建物の端っこにあるから、建物の中には入らず、棟と棟を繋ぐ渡り廊下を歩いたその延長線上にある。なんだか、長くて細い階段を下ってかま爺のいる油屋にいくときの千尋の気持ちになった気分だ。
女の子が横を通り過ぎ、そのまま歩くと、「学生相談室をご利用の方はこちらが入口です」という看板が見えた。
入口は空いたまま。恐る恐る忍び込むように入ると、よく保健室でみる白いパーテーションがある。その奥を覗くと、二つのデスクが縦に向かい合わせで並んでいた。
その奥に人がいることを、向こうからの声で初めて認識する。
カウンセラーの先生の明るい声に、安心した。消毒をしたあと、奥の個室の部屋か共有スペースにある大きめの机のどっちで話をしたいか聞かれた。
迷わず個室を選んだ。そして、自分が先に入り席に着くと、後から先生が向かいの席に座る。

           *

4限の終わりのチャイムが鳴り響く。
かなりいっぱい話した。カウンセラーの先生が自分の話したいことをすべて、熱くて丈夫な受け皿で受け止めてくれた。
席を立って帰ろうとした時には、少し頭の後ろの方が痛かった。疲れたみたいだ。
だから、これから講義に行くのはやめて、このまま帰ろうとも思ったけれど、再履修の科目でかなり緩い授業だから頑張って行こうと、少しおもりの乗った重い足で講義室がある5階までの階段を登った。
授業の始まりのチャイムがなった後もカウンセラーの先生と少しだけ話していたから、授業には少しだけ遅れて参加した。
授業が終わり、教室を出たらすぐ目の前にあるトイレに入った。
教室には50代くらいの男の先生と女の子が1人まだ残ったままだ。
リーディング(英語)の授業の再履修を受けに行った。今日はというよりも、毎回そうだけれど、とても緩い授業だ。先生が教科書に載っている英文を読み上げているのを朗読会のごとく(いや、それほど熱心にみんな聞いていない)聞き、たまにくる質問に全員が答えるだけ。しまいには、BTSが特集されている記事の一部(もちろん英語)を覚えて何も見ずに書くという、よくわからないテストをクリアして、その日の授業は終わりという具合だ。なんと楽なことか。
再履修だから少人数で生徒は5、6人しかいない。
自分と最後まで残っていた女の子以外の子たちはささっとそのテストをクリアして教室を出ていった。
自分と女の子と先生の3人だけという静かな空間が広がっていた。先生のパソコンのタイピング音が妙に大きい音となって教室中に響いていた。
そのなかで、指定された英文を家から持ってきたいらない紙に書いて覚えた。
先生が誰も座っていない席に置いたテスト用の紙にその覚えた英文を書き終えて、それを先生に提出する。
先生は席で待っていてねと言い採点をする。終わったという合図として先生はよくできましたと言う。
そしたら、それを受け取りすぐさま帰る支度をして、教室を後にする。
トイレを出た僕は誰もいない日の光だけが差し込む廊下を通り、ここにくるまでの重い足ではなく、いつもの脚を重力に任せて一段一段降りていく。

           *

ちょうど最寄り駅の近く、というよりも隣と言ったほうがいいかもしれないが大きいショッピングモールがある。
人の多いショッピングモールを通り抜けて、少し離れた郵便局へ、お金をおろしに向かう。
ちょうど一ヶ月後くらいにある英語の検定試験の試験料を今日までに払わないといけない。前回は払い忘れて受けるチャンスを失ったから、今日が最後のチャンスだ。
ちょうど時刻も時計の短針が6を指す頃で、ショッピングモールは近所のお母さんおばあちゃん、自分と同じ授業終わりの大学生そして高校生たちで溢れている。彼らは自分の右、左、そして前から舞台袖の役者交代の如く自分の視界の枠という舞台で入っては、出てを繰り返す。左にはたくさんのフルーツ。もうすでに大きくて立派なスイカがゴロゴロと並んでいる。右にはセール品の商品たち。奥には人の顔に見間違えた、婦人向けカツラのディスプレイ。セットは動き続けている。右には、エスカレーター。主役の僕はステージまであゆみを一歩一歩着実に進めていく。そして役を終えたある主婦はカートをジグザグしながら避けて、左手のスーパーの方へと向かっていく。ある老婆は杖をつきながら僕の方向へゆっくりと歩いてくる。
などと妄想を膨らませながら、早歩きで目標地点の方まで向かっていると、気づけば出口の扉まで来ていた。
外へと出て、ATMのある郵便局まで向かう。
前に制服姿の自分より背の高い学生が2人、同じ方向に歩いている。懐かしいとは思わず、男の子が2人でただ歩いている画面を見ているみたいに、遠い存在になってしまったように感じるし、感じないかもしれない。
郵便局が遠くの方に見えてきた。
郵便局の前には、淡いくすんだピンク色の布を頭に被った女性が1人。国の風習や宗教とか色々あってそのような姿でいるのだから、あまり見ないように心がける。でも、後ろをちょうど向いていたから意識する必要もない。そして、ちょうど今出てきた、同じような色の明暗で灰色の布を被った女性に対して、ピンク色の方は聴きなれない言語で話しかける。そうすると灰色の女性は中へと戻っていく。自分も彼女の後に続いてATMへ向かう。ちょうど今日は定休日なのか、隣接している郵便局のガラス張りの扉には、カーテンがかかっていてなんだか寂しい。
静かな空間にATMの操作音が響く。
いま、ここにある静かな物音しか響かない空間が映画のスクリーンに映し出されたらどんなに素敵なことかと思う。それこそ「アンナの出会い」みたいに。今この瞬間をシャンタル・アケルマンが撮ってはくれないか。
お金をいくらか下ろして自動ドアから外へと出る。そして、そのまま帰りの電車に乗るために駅へと向かった。

2022年5月Y日(木)


テレビの音が大きな騒音となって、遠くの方から聴こえてくる。
昨日の夜テレビを見ながら横になっていた。寝落ちしてしまったのだと、その音で気づく。
目を開けると、まだ薄暗い部屋の中で、テレビの画面が眩しく光っている。
起きた直後だから、テレビの音が昨日の夜から変わっていないものの、大きく感じて頭の中でガンガン響く。
まだブレザーを着ていた頃に聴いたロックンロールの、頭の中でガンという音と共に響いたあの衝撃とはむしろ正反対のものだった。テレビの音は脳が受け付けてくれなかった。
すぐに消したいなとは思いつつも、テレビの嫌な音を聞きながら、起きられずにいる。
数分後起き上がり、テレビの電源を消す。
リモコンをテレビ台の上に置きながら昨夜は窓を閉めたまま眠ってしまったせいか、部屋の中がもわっとした空気に包まれていて蒸し暑いと感じた。
窓の前には勉強机があり、そこに時計も置いてある。窓を開けた後に今の時刻を確認する。今の時間は午前4時ということがわかった。
テレビを消した代わりにスマホでラジオをつける。まだ、深夜の音楽番組がやっていた(Tokyo mad spin)。 よく聞き慣れた有名人が今回はホストを務めていた(小泉今日子と近田春夫)。ちょうど5時になったタイミングで早朝の番組に変わる。変わる前に起きられた時は少しラッキーな気持ちになれる。
家を出るまでまだ少し時間があるから、まだ読み途中のメイサートンの「独り居の日記」を読もうと思った。でも、まだ朝ごはんを食べていないからお腹が空いていて本を読むことに集中できなかった。
そしたら、朝ごはんを食べようと思い、母親が用意していたどこかのスーパーで買ってきたパンを取りにキッチンまで行く。
それを部屋の中で食べる。
食べた後は、メイサートンの日記を読む。彼女の日記は普通の人間が書く日記とは一線を画している。
まだ、自分はその普通の部類に入るのか、ところどころ読んでいて分からないところがある。
日記というよりは一つの作品のように感じる。
形式上は途切れ途切れに書いた日記だけれども、どこかその一つ一つの日記が繋がりを成して一個の物語と化しているような気さえする。
メイサートンという作家の生涯を追ったドキュメンタリー形式の映画を見ているような気分になれる。
それに、何しろメイサートンという1人の女性の格好良さがひしひしと伝わってくる。
移住した先の自然豊かな環境下で独り生きる女性の力強さといったら偉大だ。
よく本屋で見かけるような、今ノリに乗っている俳優やアーティストが書いた安っぽい日記とは違う。もちろんそれが悪いという訳ではない。質が違うのだ。
彼女が自分の書斎から(周囲は建物ひとつなく、自然という自然に囲まれている環境だろう)、おそらく彼女の生きていた時代だからタイプライターだったろうか、それとも紙に万年筆だったろうか、どちらにしろそのどちらかの方法で書いていたに違いない。というかそうであってほしいと願う。でも、表紙の書斎の写真や中にも載っている部屋の中の写真にはパソコンのような電子機器は売っていなかったからアナログな方法で書いていたに違いない。
とにかく、彼女の周りを取り巻く出来事や周りの環境、部屋の中の空気感や部屋の外の様子までもが生き生きと描かれている。
彼女の日記をキリの良いところまで読み終わったら、今日はカウンセラーのH先生といつもの部屋で会うために大学へ向かう準備をする。
いつも通りダラダラ準備をしていたら家を出るのが遅くなってしまった。
たしか、10時頃に出たようなきがする。4時に起きた意味はどこへ行ったことか。

           *

いつも通り家の最寄り駅から大学へ向かおうと地下鉄へと乗る。電車の中では日記の途中を書いていた。書いている途中に聞こえてくる駅名がいつもと違う気がすると思いながらも、書くことに集中していたせいでそのことに気づかなかった。気づいたら渋谷まで来ていた。いつもの新木場行きの列車は渋谷には途中止まらない。だから、乗る路線を間違えてしまったということにそこで気づく。新木場行きの電車に乗らないといけないところを元町中華街行きの電車に乗ってしまったのだ。今までの自分であれば、降りる駅を間違えた時は、いつもの路線にもう一度乗ろうと軌道修正をかけるけれども、なぜかその選択肢は頭の中になかった。
なぜかその違った路線のまま終点まで行ってしまえばいいと思った。
しかも、無意識のうちにそういう考えにいたった。
それは、H先生のおかげとも言えるし、彼の影響を受けたとも言える。
確か記憶の中だと、最初にH先生と会った時に、1人で遠くまでいけない(特に小旅行みたいなのがしたくてもできない)、いつも同じ、自分にとって馴染みのある場所しか行けない(そこに留まってしまいがちになる)という悩みを打ち明けたのを覚えている。そして、それにうんざりしているというかもどかしさを感じているというのも伝えた。
その悩みに対して、色々と先生なりにアドバイスをくれた。
先生も自分と同じ年齢の時に、1人旅をしていたらしい。
というか、独りでいることが好きというか、



東雲 これで"しののめ"と呼ぶことにびっくり。

やっと新木場までつく。ホームから高速道路が見える、柵越しに、
いつもこれをみると青豆(村上春樹「1Q84」に登場するヒロイン)が途中で高速道路から降りるシーンを思い出す。

           *

先週有楽町で、マイニューヨークダイアリーを見たけれど、今日も映画を見ようと思った。



2022年5月Z日(金)


目を開けると自分の部屋の天井が見えた。窓からは朝の光が入ってきていて、その光によって暗い夜が明けたのだなと気づく。夜が明けて、少し開けた窓から差し込んでいる朝日に安心して、朝が来たことにも安心している自分がいる。
太陽の光をたっぷり浴びられる朝はだいすきだ。
その一方で、夜も好きだ。
最近は完全に夜型も夜型人間だ。
なんか夜には特別な力があるような気がする。
だって、夜にしかできない、夜じゃないとやる気が起きないことはたくさんあるから。
けれども、同時に(特に独りの時に多いと思うが)不安がつきまとうのも夜の特性だ。
それでも、夜を少しでも楽しみたいと窓の外が明るくなるギリギリまで何かしていたい。
だけど、朝は来てほしいと願っている。
だから、朝のほうがいいだとか、夜の方がいいとかは一概には言えない。
朝、太陽が出ていてその光を浴びている時の人間と夜の月明かりで照らさらている時の人間は全く違う。
オオカミ人間が月を見て化けるのとさほど変わらないよな。
そしてその不安を伴う夜といえば、僕は思い出す作品がいくつかある。
人によって色々違うけれども、まず安部公房のある作品のワンシーンを思い出した。
代表作の「壁」に収録されている短編『魔法のチョーク』だ。
タイトルにもなっている魔法のチョークで売れない画家のアルゴンくんがチョークで壁に食べ物や家具、お金を書き、それが壁から出てくるというシーンがある。ただ、それは日の当たらない夜でしか使えないもので、夜が明け日の光が差し込むとそれは全てないものになってしまう。そして、イギリスの小説家ロアルド・ダールが書いた作品の一つ「The BFG」もソフィーが夜眠れないところから物語は始まる。夜から物語はスタートする。
ソフィーは今まで経験したことのない静けさに少し動揺する。今まで丑三つ時には眠りについていたから(いや、むしろそれが寮のルールだったから)その時間に起きているということはソフィーにとって恐怖とワクワクの両方があったのだろうと思う。




その時間仰向けになっていて、背中が床の硬さを感じ、昨日は布団を敷かずに寝落ちしたのだと気づく。
とりあえずもう10時ぐらいだから、朝ごはんを食べようと思っていつも通り用意されたパンを食べにキッチンへ。

任された家事が一通り終わると、外に出る準備をして家の最寄り駅へと向かう。

氷川台からいつものように有楽町線に乗り池袋へ。池袋からはJRの山手線に乗り換えて上野まで。山手線のいいところは地下鉄じゃないから外が見えるところだ。だからなるべく早くスマホをしまい、外の景色を車窓から眺めた。上野駅のプラットフォームに降りると次は東京メトロの銀座線に乗るために少し歩く。銀座線に乗り換えるためには一度改札を出ないといけなかったから、外に出るも、自分が建物の高いところにいたのだとそこで知った。
上野と言ったら上野動物園だから右を見ると森の一部分みたいなのが見えた。
前方には銀座線に乗り換えるための下りのエスカレーターが。
左は上野の町が上から一望とまでは言わないまでも見渡せた。
銀座線に入る



銀座線にのって上野から田原町まで








学校に行く前に必ず通る最寄り駅のすぐ目の前にあるショッピングモールへと行く。
ケンタッキーでハンバーガーをたべることにした。
レジの前にはお会計をしている最中のお客さんが1人。それと、受け取り口で頼んだ食べものが出てくるのを待っている人が1人。
その受け取り口で待っている人が、突然自分が並んでいる前に割り込んできた。
できるのを待っている人かと思っていたから別に何も言わなかったものの、少しびっくりした。






いつも通り二階にあるペットショップの前を通る。たまたまこちらの通路側を見つめていたトイプードルの赤ちゃんと目が合う。犬の方は目を逸らさず、こちらのことを心配しているように見つめてくる。そのように見えてしまってならなかった。少し泣きそうになった。なんか、そのトイプードルの赤ちゃんが自分の今まであった辛いことや苦しかったこと全てを理解していて、その上で大丈夫だよと言ってくれているような気がしてならなかった。もしくは大丈夫?と聞かれていたかもしれない。すでに、さっき行った田原町の書店で時間を使いすぎたせいでもう既に5限目の授業は始まっていて急がないとやばかったから、そんなにその赤ちゃんをずっとディスプレイ越しに眺めることはできなかった。だから、ほんの数秒しか見つめ合うことは出来なかったけれども、あの子の目を逸らさず、こちらを心配そうに見つめるあの顔が忘れられない。そこを去った後も、そのショッピングモールを出て大学へ向かう最中も、帰りの電車内でも忘れられないでいた。
あの優しい顔が、お守りのように頭の中に浮かぶ。


終奏 = Outro

この日記がなかったら。この日々が、時間がなかったら今の僕はない。
それを乗り越えたことで今の僕がある。
僕が以前に書いた居場所の定義。それに照らし合わせるならば、今の働いている環境も、家族も、友達も、全ての居場所においてしあわせ。
ほんとうに。
色々と良い方向に向かいつつある。
今日。文学賞の発表。大切な人との会話。仕事でちょっと不調。全身で浴びる、存在する。雨で溶けた自然の心地よい空気、空間。幸せな日々。
なんか、ふと1日の終わり。自分の体が気化して消えそうだった。ふわふわしてる。外の方が揺らいでいる。体の輪郭が波打っている。
これが自分がわからなくなる瞬間。なのだと気づいた。人間ってよくわからないな。
さいきん、明確に思った訳ではない。でも、自分というものが少しずつわかってそして固まってきているなと感じていた。
でも、そんな訳はなくて常に動いている。変化している。
まさに生の流動。常に動き続けているんだね。特に大きい変化や動きを伴うと、自分でもびっくりしてしまう。その大きい動きを表現するために流動ではなく、竜動。と言ってもいいかもしれない。
今まさに僕の身体は変化していて、それにおののき、むずがゆさを感じている。
でもそれは、以前の日記でも言った通り人間なら当たり前のことで、そう感じるのも生きている証拠。
イキテイルショウコ。
そうか、こういう時に人は生きていることを実感するのか。そうかもしれない。
この日記をこうして作品として、みんなが見れる形で公開するということはとても意味のあることで、本当にうれしい。当時のボクも喜んでいるだろうと思う。
とりあえず、この日記を読んでくれた方が、何かの支えに、心の支えになってくれればいいなとまさに心から願っている。
最後までこんなに長い作品を読んでくれた皆さん、本当にありがとう。
僕は夢を必ず実現したいと思っているので、これからも応援して欲しいと思います。
では。
じゃあなあー。

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