樺太師範学校って、知ってる?①ー真岡郵便電信局事件によせてー
突然ですが、皆さん樺太という地をご存知でしょうか。東北〜北海道出身の方ならなんとなく分かるかもしれません。
今はサハリンと呼ばれているロシア領(正式には無所属)ですが、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太は日本領でした。ロシア人、日本人、韓国人他、色んな人種の人々が住んでいて、賑やかな日本の地方都市みたいな雰囲気だったそう。冬はスケートをしてみんなで遊んだと、亡き祖母が教えてくれました。
そう、祖母。
今回のキーパーソンは数年前に亡くなった祖母です。
祖母は青森県の小さな町で生まれてかなり裕福な暮らしをしていたのですがある日家出同然みたいな形で樺太へ渡ったという、行動力があるというか……若干ムチャクチャというか……とにかくパワフルな人です。
当時の師範学校は今で言う大学の教育学部にあたります。防衛大学校のように勉強しながらお給料が貰えたので自立したい祖母にとってうってつけだったんでしょうねえ。
樺太師範学校の方も生徒を集めたくて、お金持ちの家の子供に声をかけて回っていたとか。当時にしてはハイカラな制服見てみたくて、祖母の家には近所の女の子たちが詰めかけたそうです。制服は宣伝の意味もあったんでしょう。
祖母は地元の女学校を出てから樺太の師範学校へ進学したのですが、当時の話を孫の私には一切しませんでした。
存命だった頃、仕事の話は相談に乗ってくれるのですが師範学校時代……つまり樺太の話はついぞ聞けませんでした。一度、京都土産に美味しいパンを送ったことがあるのですが、その時唯一「ロシアのパン屋と同じ味だ。懐かしい」と言ってました。
敢えて話すこともないと思っていたのか、話したくなかったのか……。
また、戦争のない時代に生まれた私には理解できないだろうと思っていたのか。
祖母、母、私と三代に渡って同じ職に就いているので、わたしはどうしても祖母が青春時代を過ごした樺太という土地が気になりました。また、当時は珍しかった共学の樺太師範学校という学舎も。
孫の私には話してくれなかった祖母ですが、娘である母には割と当時の樺太師範学校をとりまく樺太の様子を話していたようです。
しかし、そこで樺太史を語るのに避けては通れない悲しい事件と向き合わなければならなくなるのですが……。
→続く