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翻訳文学が苦手だった理由

翻訳には間違いがあって当然だった時代を経て


翻訳をすることとは

海外文学作品が苦手でした。
なぜかと言えば、その理由は間違いなく翻訳にありました。
海外の翻訳作品には、ある特徴がありました。
それは、「直訳過ぎて意味が分からない」というものです。

なぜ直訳なのか。
そもそも、海外の言語で書かれたものを、日本語に訳すのだから、直訳では意味が通じないことは明白ですよね。
それは、わたしたち日本人は、学校の授業で経験しています。
「This is a pen」
等のように、簡単な文章なら問題ない直訳も、少し複雑になると訳すこと自体が困難になります。
これを、文字として、文学として成立させることが困難なことくらい、どう考えても難しいことなのです。

日本人が外国語に精通していない理由

そもそも、日本人が外国語が苦手な理由はここにあります。
つまり、「何でもかんでも日本語に置き換えようとする」からです。
何でも日本語に置き換えようとすると、どうしても無理が生じます。
「日本語は優秀だ。どんな言葉でも日本語に置き換えることは可能だ」
そんな風に考えているのは、日本人だけかもしれません。

例えば、外国語の単語ひとつとってみても、それを日本語に置き換えた時点で『別の意味』が発生してしまいます。
それが、言語という者であり、それがニュアンスの違いとなって会話が成立しないということが起こるのです。
外国の異文化を学んできた人間が、突然鎖国している日本の真ん中に放り出されたとき、戸惑わずに馴染んでしまう人などいません。
その国の言葉を知るためには、その国を知る必要があるのです。

隣国でありながら、いがみ合って、戦争にまで発展するのはこうした『伝わりきらない言語のニュアンスが生み出した誤解』だと、わたしは思うのです。

翻訳に正解など無い

比較文学者である大東和重さんは、翻訳についてこう述べています。
「翻訳している時点で、原文とは別物として捉える必要がある」
つまり、翻訳されているからといっても、その作品を読んだことにはなりにくいということです。
翻訳した人が、どれだけ忠実にその作品を訳したかは、その訳者にゆだねられています。
その作品がその作品として存在しているのは、その作品が生まれた言語のまま読まれたときに限定されるのです。

わたしが「海外文学が苦手だ」と思っていた当時、原文を直訳したような作品しかありませんでした。
そこには、翻訳した人の忖度など存在しなかったし、翻訳する人も、どこかの偉い学者さんや専門知識を得た文学者さんなどが多くいました。
専門分野の方々が重要視するのは、『正確さ』です。間違ったことをかいたら、それだけで糾弾されるような世界です。
「上げ足を取られるようなことはしたくない」
そんな思いから、直訳がセオリーとなり、「海外文学ってこのくらい読みにくいものだよね」という人々の思い込みを生んだのです。

そうした一部の人の小さなメンツから、「より正確な翻訳をする」というスキルが求められる世界が誕生しました。

翻訳作品の現在

現在は、多くの翻訳作品が登場しています。
特徴的なのは『超訳』というジャンルが誕生したことです。
これによって、翻訳作品の世界が大きく広がりました。
日本人の解釈を交えて、日本人の感性で訳すことが世間的にも許されたことが、大きな進歩となったのです。
それによって、海外文学のハードルが一気に下がりました。

その流れに乗った出来事として、翻訳する人の『種類』が変化したのです。
翻訳される作品の中には、村上春樹さんのような『現役小説家が翻訳する』機会も多く誕生してきたのです。
するとそこには、「こんな言葉はおかしい」とか「こんな訳し方は後の内容に続きにくい」と考えて、『解釈を交えた翻訳』という新しい翻訳の仕方がされるようになっていきました。

翻訳作品は、いま現在、書店で多く並ぶようなりました。
それはかつて、古本屋の一角に、ひっそりと置かれていたものたちです。
翻訳というジャンルに、新しい風を取り入れ、日の目を見た海外文学。
それらの作品が表しているように、文学というものは、いつまでも古めかしいようでありながら、少しずつ生まれ変わっているのです。

海外文学を読んでみませんか。
今わたしは、かつてのような苦手意識なく、海外文学を読んでいます。
それは、もともと存在した海外作品に対してということもありますが、言ってみれば、むしろ海外文学の門戸を開いてくれた、翻訳を通して面白く書き直してくれている翻訳者に感謝するべきことだと思っています。

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尾崎コスモス/小説家新人賞を目指して執筆中
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