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虐待は個人的問題か?構造問題か?

 毎日新聞の気になった記事です。
 介護現場での虐待の背景や原因、そして防止方法についての記事です。
 毎日新聞政治プレミアの取材に林和歌子(城西国際大学福祉総合学部教授)さんが応じたといいます。

 介護現場での虐待について、「少子化で若者の数が減っていることもあり、高齢化のスピードに介護人材の数が追いついていません。仕事量が増え、過労とストレスなどから自らのコントロールを失ってしまい、虐待にいたってしまうこともあります」と言う。

 毎日新聞 2024.06.03『「見えにくい」介護現場での虐待 防ぐには』

 ようするに、虐待に至る因果関係は次のような図式になるということでしょう。

人材不足 → 仕事量増大 → 過労・ストレス増大 → 自らのコントロールを失う → 虐待

 上記の因果関係にさらに、教育不足が強調されています。

そのうえで、「虐待の背景の一つに、人手不足の結果としての技術や知識の不足があります」と指摘。

 毎日新聞 2024.06.03『「見えにくい」介護現場での虐待 防ぐには』

 人手不足の結果として技術や知識不足となるとのことです。

 人材不足 → 技術や知識の不足 → 虐待

 現場が忙しくて新人教育ができないから技術や知識不足になるということらしいですね。
 さすがに大学の先生だけあって、虐待の原因は教育不足だから、もっと教育しなさいということなのでしょう。
 問題は、どのような教育かということもあるかも知れません。私は、朱喜哲さんが紹介しているローティの「感情教育」が良いなと思っていますが・・・
 感情教育については、次の拙文の「6.感情教育の可能性」をご笑覧願います。

 もっともっと、インタビューの内容は濃かったと想像していますが、メディアとしては「人材不足」、「教育不足」のような切り取り方が常識的なのでしょうね。

 このような、虐待は教育不足という職員の問題に矮小化するメディアも問題だと思います。

2.虐待は構造的不正義

 abuse/虐待は、虐待した職員の道徳観の欠如や易怒性などの性格の問題や専門性の欠如等の個人的な要因によって起因するものではなく、構造的な要因で発生するのだと思います。

 例えば、関係の非対称性(権力性、抑圧性、暴力性)、パノプティコン的権力、パターナリズム、職場で語られるボキャブラリーや言葉遣いなどの言語環境、文化的環境、エビデンス重視の科学的思考(対象化・客体化・数値化)、業務日課至上主義にみられる効率化信仰などの考え方や感じ方に関わる構造と過酷な過重労働や低賃金、人材不足等の労働に関わる構造や人間関係や組織構造、等々の諸構造が密接に組み合わさっているのだと思います。

 虐待は社会的な正義に反します。虐待は不正義そのものです。
 朱喜哲ちゅひちょる(哲学者)さんは次のように「公正としての正義」は構造またはシステムであるしています。

  ロールズが構想した「公正としての正義」というものが、属人的なものではなくインフラのように絶えず作動いつづけるべき「仕組み」や「構造」あるいは「システム」であるという点はきわめて重要です。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p228

 上記の朱喜哲さんの上記の一文の「公正としての正義」を「虐待防止」に置き換えると、次のようになります。

 「虐待防止というものが、属人的なものではなくインフラのように絶えず作動いつづけるべき「仕組み」や「構造」あるいは「システム」である」

読み替え(祐川)

 この文章は、虐待防止は構造的、システム的なものであることをよく表しているように思われます。


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