介護世界の世人(das Man)ー虐待論Ⅵ
「世人」で考える介護
池田喬(哲学者)さんの『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年NHK BOOKS)はハイデガーの主著『存在と時間』をとても分かり易く解説していて勉強になります。
この本から学んだ概念に「世人」(独 das Man、英語the one)があります。この世人という概念はもちろんハイデガー(Martin Heidegger:ドイツの哲学者、1889年~1976年)の造語・概念です。
この「世人」概念を用いて、介護の世界の住人について考えてみたいと思います。
1.実存が個別ケアの基本
(1)実存とは
介護の基本は個別ケア、つまり、一人ひとりを独自の存在、固有の存在として捉え、介護していくことだと思います。この一人ひとりの固有の存在ということについて熟考する必要があります。
人間(ハイデガーは「現存在」と呼んでますが)は実存(existence)、つまり、「私は私固有の存在、自分自身」です。
池田喬さんは実存について次のように説明しています。
ようするに、人間は一人ひとり固有名を有した、かけがえのない、他と取替のきかない固有の存在なのです。
「実存」については以下のnoteもご参照願います。
(2)日常性の主体は実存・自分自身ではない
ところが、ハイデガーは、人間(現存在)は、日常的には実存・自分自身になっていないと指摘しているというのです。先ほどの、人間が実存(固有の存在)であるとした文章の後には次のような文言が続くのです(太字)。
ハイデガーは日常的には人間は自分自身ではなく、「世人」だとしています。
「あなたも、私も、彼も、それぞれかけがえのない固有な存在、自分自身、実存だけれど、普段はそんなことはないよね。」ということらしいです。
高齢者介護の世界でも同じですよね。
誰かに聞かれれば、被介護者(障がい高齢者)も介護者も実存、つまり、一人ひとりかけがえのない固有な存在、自分自身だと答えるでしょう。
でも、実態はどうでしょうか。日常的にはどうでしょうか。
介護の世界でも、日常的には実存ではなく、「世人」として生きていると言えそうです。
2.世人とは
池田喬さんは、この「世人」を次のように説明しています。
池田喬さんは、上記の文中の「ひとは~と言っている」「ひとは~する」とした場合の「~」には「雨に濡れると風邪をひく」とか「最近の若者は内向きだ」など、世間で一般的に言われるようなことなどが入り、このようなことは「具体的に誰が言っているのか、と問われれば、よくわからなくなる。むしろ、誰もが言っていると答えたくなるところであろう。」と記しています。
しかも、たいした根拠もなく言っている、やっているのだと池田喬さんは指摘しています。
日常的な会話や行為は「ひとはこんなことを言っているから」、私も同じようなことを言ってみたり、「ひとはこんなことをしたりするから」、私も同じようなことをしてみたりしているのです。
何か話す時に、いちいち熟考していたら会話がスムーズに進みませんし、いちいち意志決定して行為しようとしたら、面倒くさくて、とても生活できません。
とりあえず、ひとが言いそうなことを言い、ひとがやりそうなことをやっているのが日常です。
これらの会話や行為の中に立ち現れている「ひと」が「世人」だと思います。
そして、この「ひと」=「世人」は匿名的、非‐主体だと、池田喬さんは次のように説明しています。
介護施設の住人(入居者及び職員)も日常的には取敢えず、当たり障りのないよう「世人」として生きているのではないでしょうか。
たとえ、個別ケアとか、一人ひとりを大切にとか、標語的には理解していたとしても、介護施設の日常は入居者にとっては、日課が定められた共同生活であり、職員にとっては、生産性・効率性が求められる厳しい職場であり、そこでの言動は決まりきった「世人」のものと言えるのではないでしょうか。
3.個性的でありたいから世人となる
(1)ヒトは個性、固有性を求める
「世人」とならないために、やはり、自己の個性、固有性を徹底して育む必要があると思うのかもしれません。私もそう思いましたが、自己の個性、固有性を求めれば求めるほど、「世人」となってしまうようです。
池田喬さんは端的に次のように指摘しています。
個性的、固有であろうとすれば、自己喪失してしまう。この辺の事情を池田喬さんは次のように説明しています。
(2)個性・固有性を測る標準
自分が固有であり、個性的でありたいと願うということは、自分と他者を比べることになり、比べるためには、基準、尺度、標準が必要となるということです。
例えば、自分の優しさで自分の優しさを測ることはできず、自分以外の誰かを尺度にしなければなりませんが、特定の誰かを基準にすることもできません。
端的に言えば、誰でもない「世人」の尺度を用いて、自分と他者を比較しているのです。
このように、個性を大切にしようとすればするほど、比較する尺度、基準、標準を共有しなければならず、よって、同じような物の見方をしてしまい「世人」基準で自分の個性、固有性を判断していくことになるようです。
これは、一人ひとり固有な存在である人間の宿命なのかもしれません。
ですから、私たちは、いくら一人ひとりかけがえのない固有の人間であって、介護においても個性を大切にとか、個別介護が重要だとか言ったところで、日常的な会話、行為は「世人」なのだという認識が必要なのだと思うのです。
介護の素晴らしい理念は理念であり、一般的な日常性とは別次元のものです。
日常的には人を比較する基準である「世人」(非‐主体)として生きているのであって、「〇〇は~です。」「~しなければなりません」などと、熟考もせず、なんとなく流されながら会話し、行為しているのが実態なのです。
介護を考えるときに、この日常の「世人」(非‐主体)から出発する必要があると思います。
4.「世人」の規範性と虐待
(1)世人の規範性
「世人」は標準であって、基準であり尺度になっていますから、当然「規範性」を有しています。
池田喬さんは、この「規範性」がどのように獲得され、維持されていくのかを次のように説明しています。
確かに、「世人」の規範性は空気のように普段は気づかないものでしょう。そして、規範性が顕わになるのは例外、逸脱事例に出くわした時だということも理解しやすいです。
(2)BPSDは逸脱事例
この例外、逸脱は認知症高齢者の多い介護施設では日常茶飯事でしょう。
認知症高齢者の逸脱行為はBPSD(Behavioral Psychological Symptoms of Dementiaの略で周辺症状)といいます。
2024年度の介護報酬改正では、特養、老健、介護医療院、グループホームに「認知症チームケア推進加算」という新たな加算が加わりました。
この加算は、認知症の行動・心理症状(BPSD)の防止、または早期対応に日頃から取り組む体制の整備を促すための加算です。
この加算創設に示されるように、介護施設では認知症高齢者のBPSD、逸脱行為が日常化・問題化しているのだと思います。
介護施設では「世人」の規範性を維持強化する逸脱行為(BPSD)が日常茶飯事に起きています。
ということは、介護施設の職員は「世人」の規範性が維持・強化されやすいということになるでしょう。
職員たちは、例外事例・逸脱行為・BPSDを日々、眼のあたりにして、「~でなければならない」「~しなければならない」「~でなければならない」などの「世人」の規範性が強化されていく可能性があると思われます。
(3)規範性の強化はabuse/虐待の背景
人材不足で多忙を極める日常の業務の中で、熟考することもできず、しっかりと意を決して行動もできず、「世人」として生きていかざるを得ない場合、「世人」の「~であらねばならない」という規範性が強化され、abuse/虐待へとつながっていく怖れがあるのではないでしょうか。
介護施設で虐待を受けるのは圧倒的に認知症高齢者が多のも、このような認知症者の逸脱行為による規範性の強化が背景があるかもしれません。
介護施設におけるabuse/虐待は加害者の個人的な悪意によるものもあるのかもしれませんが、この「世人」の規範性に由来することも多いのではないでしょうか。
なにしろ、規範とは、「~すべき」ということですので、そこからの逸脱は責められることになるからです。
5.世人には責任がない
「世人」として日常を生きているわたしたちは、「ひとは~している」「ひとは~するものだ」という規範を熟考もせず、議論もせず、無自覚に受け入れています。
池田喬さんは「世人」の規範性、標準尺度は各自の自由に任されるものではなく強制されていると、次のように指摘しています。
そして、池田喬さんは、この「世人」の規範性ゆえに、私たちはお互いに責任を問わずに済ませることができると指摘しています。
そして、この没道徳性は「悪意」のような特殊な意図によるものではなく、自分で物事を根本的に理解することなく、ひとが「そういうものだ」として共有している既成解釈に従って発言し、行為しているだけなのです。
6.世人の空談
(1)空談とは
池田喬さんは「世人」の語らい、「空談」についても紹介しています。
そもそも、「世人」の日常会話などは、無責任極まりないものが多いと思います。
「生活保護受給者は怠けものだ」「金持ちは努力したから金持ちになった」「成功者は独創的な考えを持っている」「最近の若者は内向きになっている」「若い頃には海外で苦労した方が良い」「日本に住んでいる外国人は特権をもっている」「中国人はうるさい。」「アメリカ人は傲慢だ」「ドイツ人は真面目だ」などなど・・・
「世人」の発言、会話には根拠が薄弱なものばかりです。池田喬さんは空談について次のように説明しています。
日常生活での会話・コミュニケーションはおおよそ、この「空談」でしょう。
介護施設でのたわいもないコミュニケーションも、ほぼ、「空談」です。いちいち、話している内容を検証したり確認したりはしないでしょう。
(2)空談は世界を固定化する
池田喬さんは、この「空談」には世界を固定化させる働きがあると指摘しています。
なにも考えずに語り合う「空談」は社会、組織を固定化するということですが、何も考えず、熟考したりもせず、語り合っていれば、現状が変わることは当然あり得ないでしょう。
7.「空談」を止める時
朱喜哲(哲学者)さんは、私たち人間や社会は、受肉したボキャブラリーだとしています。つまり、その人、その集団の用いる語彙、ボキャブラリーがその人を形作っているということです。そして、いつでも自分や集団は自らを語り直し、変わっていくことができると指摘しています。
ですから、介護職員も使用する語彙、ボキャブラリーを変えてみることによって、自らも変わり、介護業界も変わっていく可能性があるのだと思います。
しかし、日常的なコミュニケーションは「空談」となっていて、ボキャブラリーもありきたりのものでしょう。
この「空談」を止め、言葉・ボキャブラリーを熟考して選び、自ら考えてコミュニケーションする場面を意図的に作っていく必要があると思います。
介護現場では、abuse/虐待の防止検討会や、既に起こってしまったabuse/虐待に学ぶ会などが「世人」の「空談」「没道徳性」から解放され、自ら考え、言葉を選び、熟考し、新たな自分や組織を創っていく可能性に開かれる場ではないでしょうか。
安定的な日常生活を過ごすために、人は「世人」となるのだと思いますが、池田喬さんの指摘しているように、世人には没道徳性と真実を軽んじる空談に埋没してしまいます。
せめて、人権が侵害された残酷な事態であるabuse/虐待に直面した時には、一時だけでも「世人」を卒業したいものです。
いずれにしましても、介護や介護業界の解像度を上げるためには、「世人」という言葉、概念は有効なものではないでしょうか。
書き綴ってきた虐待についてのnoteです。ご笑覧願います。