「琴のねをはなれては、何ごとをか ものを整え知るしるべとはせむ」 〜琴(きん)と琴(こと)〜
琴弾きの端くれとして、研究というほど大仰ではないながら、研究者時代の応用で、「琴」について、手の届く範囲で探究しています。
論述ではなく、好きだから知り、理解したくて、実践を伴っての見解です。
まず、大和においても、中国大陸においても、古代より、弦楽器である琴は、特別なものであって、
元来、遊興のための楽器ではなく、
・神に通じる高波動を再現でき、
・その音色は、宇宙単位で世界を糺す
・ゆえに、人の中でも、霊力や才知に特に秀でた聖人君子のみが許され、
・奏でることで、世の中も人心も“調律”する
と、認識されていました。
ただ、日本における「琴(こと)」と、大陸由来の「琴(きん)」とは、
同じ弦楽器で「琴」と称しながら、
共通する概念と共に、本質的な部分での相違があり、
ちょっと興味深いなと思われたので、書いておきたいと思います。
『源氏物語』に描かれる「琴論」
『源氏物語』には、折々、登場人物たちが舞楽や演奏を楽しむ場面が出てきますが、
やはり美しい情景に描かれるのは、光源氏に愛された女性たちによる“女楽”の場面です。
「若菜 下」の章に描かれる女楽は、光源氏の兄君である朱雀院が、光源氏の正室となった愛娘・女三の宮の琴(きん)を聴きたいと所望し、光源氏があわてて指導しますが、
院へのお披露目に先立ち、女三の宮を含む女性たちに、それぞれ四弦楽を弾かせて楽しもうと、内々に企画する場面です。
明石の御方→琵琶・・・ペルシャ由来大陸経由で伝来。四弦、撥で弾く。リュート型。
紫の上→和琴・・・古代の大和琴を継承した和製。八弦、琴柱あり、琴軌(ことさき)というピックで掻き弾く。ツィター型。
明石女御→箏の琴・・・大陸由来。十三弦、琴柱あり。ツィター型。
女三の宮→琴(きん)の琴。大陸の古琴。七弦、琴柱なし。 十三の徽(き)というしるしを目安に音程をつくる。ツィター型。 (上の絵では、琴柱が描かれてしまっています)
明石の御方以外の三人は、光源氏が手ほどきしたということで、それぞれの素晴らしい出来に、光源氏はご満悦。
そして、この女楽のあと、源氏は子息の夕霧と、楽器論議を繰り広げます。
特に源氏は、琴(きん)の琴についての思い入れが深く、
琴の琴は、大陸における聖人君子の象徴とされ、日本に伝来されてからも尊ばれた、伝統の古琴なのだけれど、
すでに『源氏物語』の時代の頃には、弾く人が少なくなっていたとのこと。
その理由として、かの菅原道真でさえ習得を断念した逸話があるほど、奏法が困難で、学びづらかったことが挙げられました。
さらに、
いわく、正しく学び得た昔の人の琴のねは、世も人心も糺して正しく整える力があり、事実、そういう例があったと伝えられており、
その孝養は、
「天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ…」
これは、『古今和歌集』仮名序の、
「天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれに思はせ…」の記述と通じ、
この時代の天皇の帝王学、及び貴顕貴族の心得として、管絃と和歌の習得が特に重要とされていたことからも、
単に教養としてではなく、人の上に立ち世の中を正しくする霊験を発揮する修養だったことが伺えます。
そして、それほどに常ならぬ力を持つゆえに、習得困難な上に、畏れ多くもあり、
生半可に学んだような不十分な未熟者が、なかなか満足な成果を得られず、思いに任せぬからと難癖をつけて、
「琴(きん)を弾く人には禍がある」、などと言いがかりを流布させたがゆえに、弾き伝える人が絶えてしまった……
琴のね以外の、何をもって、この世の音律を整えられようか!と、源氏は嘆きます。
実際には、琴(きん)の琴が禍を起こしたという話は、伝わっていませんが、広い意味で「琴」により災いを招いた例は、あるといえばある。
『古事記』に伝える仲哀天皇は、琴により神功皇后に依り憑かれた神の託宣を信じず、審神者の武内宿禰に促され、渋々といい加減に琴を弾いたあげく、その場で命をとられます。
ただし、この琴は琴(きん)ではなかったと思われますが、神の祟りを得た琴ということで、後世、同一視されたのかもしれません。
広くみれば、菅原道眞は、琴(きん)の習得が困難とみて断念しますが、
断念するくらいだから生半可に続けていたわけではないはずなのに、
難を得て左遷の憂き目と共に、憤死しているので、
これも琴に関係していると言われる向きもあったのかもしれません。
あくまで「琴」に寄せた推測でしかありませんが……
こうした風説もあってか、琴に触れて成し得られなかったら恐ろしいことになる、触らぬ神に祟りなし……と、習得すること自体が避けられた……などという迷信が、
琴が衰えた頃には、あったのかもしれません
古来よりの日本の「琴」論の概略
古代日本において、いわゆる「琴」の認識はいかがなものだったのでしょうか。
琴(以下、七弦琴)・和琴・箏は、同じツィター型と分類され、見た目にも同じタイプに見えながら、
実のところ、楽器としての奏法も、楽器が持つ本質的な概念も、まったく異なるものと認識されます。ゆえに、習得する際の心得や目的も、それぞれ違うと考えていいでしょう。
この時代、習得の意義は、単に笛が好き、箏が好きという嗜好だけの問題ではなかったはずです。
特に、和琴と七弦琴は、別格でした。
(ちなみに、ハープ型とされる弦楽器は、一弦一音で、調律した音のみしか出せません。ハープ型は、渡来品が正倉院にはあったように思いますが、楽器として日本では、洋楽が入るまで普及していないようです。これも弦楽器の象徴的な意義認識を示しているように思われます)
日本では、埴輪が持つような「やまと琴」は、古代祭祀において重要なもので、弦の振動が、天地自然神の高波動を再現するため、特定の神人としての職能の者か、最高の霊力を有する王者がこれを奏でました。
それに感応して、舞う巫女王が神がかりし、仲介者である臣・審神者が神名を判明し託宣を翻訳する役目をする、三人体制が、『古事記』仲哀天皇条などにみられるスタイルです。
古代の祭祀遺跡から出土する琴は、板のものや、箱状のもの、主に五絃で、
水辺の祭祀において使用された後は、そのまま水に流されたと推測されます。
おそらくこの頃の琴は、現代において想像されるような、
“よく響く美しい音色”ではなく、“弦をはじいて振動される波動音”の神具で、
『古事記』などには、琴が天地を揺るがすような大音響きを発したと表現される箇所が数カ所みられ、
今の私達が、耳に心地よく聴く弦の音色ではなく、
実は耳ではなく、当時の人の体感として、とてつもない強力な波動を放つものが「琴」だったと思われます。
波動・響きとしては、弓をはじく鳴弦に等しく、
梓弓の神事に今も残るように、
一説には、弦を弾くのではなく、板を叩いて弦を振動させる、波動打楽器に近い板琴だったとの見解もあります。
この大和琴が、やがて大陸渡来の弦楽器を応用し、
「和琴」として、楽器としての音色に進化しますが、
もともとの“祭具”としての意味合いは変わりません。
一方、大陸において七弦琴は、皇帝と、天に許された君子のみが持つことを許され、「座右の書」と共に、膝に乗せ、「座左の琴」を爪弾くのが聖人君子のエリートスタイルであり、
「書」と「琴」を正しく理解し、正確に表すことが、天地宇宙を調律する超越した者のつとめとされました。
つまり、生半可に間違いだらけの書や琴を表したら、世界秩序がメチャメチャになると認識されていたわけです。
この観念が、やがて大和にも渡来し、やまと琴の神聖性とも融合して、奈良時代には貴族男子のたしなみとされます。
日本と大陸との共通点は、まず、尊崇される男性が、琴を弾づる資格を有すということでした。
おそらく、日本と大陸との根源的な相違は、
やまと琴における祭祀では、その場の神意を受けるため、ある程度の型を経て、即興性が重視されていたと思われますが、
大陸では、音色のすがやかさと共に、楽曲が正確に表す技能が重視されていたと思われます。
これはたとえば、日本では古来(大和朝廷・律令国家以前)、声が霊力の発現とされ、神言や寿詞、勅詔が、記憶され再現され、言霊を尊重する文化であることと、
大陸では、摂理が、書で正しく筆記され表されることで、文字そのものに神の力があり、文書で示されることが、ゆるぎなく厳正であることの証左とした文化だったことと通じていると感じます。
やがて律令国家以降には、日本でも、書や詩歌・音曲が、国家統一のための共通した教養として定着すると、
日本のそれまでの伝統的な文化と、大陸の文化が、日本流に和合して、変化しつつ、応用されていきます。
小さな部族内では、王となる人をじかに見、声を聞き、その威力をそのまま受けることができますが、統一国家となると、地方すべてが天皇や朝廷の詔勅をじかに見て聞くことはできませんし、勅使からの伝言では正確さを欠く。そこで「勅書」と印章により、文字で霊力を発動する利便を覚えたということでしょう。
現代でも、御札に霊験を求めることで、離れていても力を分け与えられている伝統は続いています。
記憶の再現や、基本的な型づけ以外の規定のない、即興的かつ直感的瞬発的な、言葉や音律の表出ではなく、
模範となる書籍や音曲を正確に覚え、また創作し、それを間違いなく正しく再現して表せることこそが求められました。
誤りや未熟な音響は、世を乱し天地を損ねる重大な過失となり得るため、資質と才知と人格がなければ、たわむれに表してよいものではなかったということ。
それゆえ、天皇や皇室・極めて高貴で高潔な、資質を有する人のみの心得であり、代々それに特化した楽人たちの生業ではありましたが、
そうした資質を鍛えて身を立てるためもあり、
書や和歌、そして楽器は、平安朝には、貴族女性の心得と教養としても嗜まれるようになり、華やかな趣で文学にも表現されるようになりました。
琴・箏曲・和琴・琵琶、そして横笛は、ひと通り心得として習得しつつ、
特に個人が好む楽器が、その道の名人を鍛えることとなり、やがて一族の特質ともなります。
天皇が帝王学として学ぶ管弦も同様ですが、だいたい一条天皇(清少納言や紫式部の頃の帝)以前までは弦楽器を好み、一条天皇以降は横笛を好む流れとなったようです。
そして嗜好教養以前に、楽器にも特質が意識され、
和琴は、古来、巫女の神託を促すための神祭りの重要な音具として、男性が奏でるものでしたが、
少なくとも平安以降は、神託巫女自身が奏でるものともなったようです。
ゆえに、和琴は「神楽器」と呼べる性質を有すとされました。
琴(きん)の琴も、高貴な神聖性はあったのですが…
…嵯峨天皇以降は、習得困難と扱いづらさのため、次第に遠ざけられほぼ弾かれなくなっていきます。
……というように、概略の理解をしています。
超越した資質により得られる、琴の神性
さて、先の『源氏物語』では、
光源氏自身、あまたの技能の名手ではあるけれど、
天皇の皇子として生まれた自身の象徴としてか、琴(きん)の琴を好み、須磨に隠棲した時にも、手慰みとして愛奏しています。
しかし源氏は、幼きより育てた最愛の紫の上にも、愛娘の明石女御にも、琴を伝授することはなく、女三の宮に教える源氏の音色を聴きつつ、お二人はそれをひそかにお恨みに思っています。
女三の宮は、幼い頃にわずかに琴を習ったことがあり、朱雀院から継続しての源氏の手ほどきを期待された経緯と共に、兄天皇直系の皇女ということで、琴を弾く資質として申し分ないとの判断もあった。
対して、藤壺中宮の姪であるものの、王族の庶子である紫の上と、
自身の娘で国母・中宮となるべく育てても、母の身分の低い明石女御は、
高貴な琴を弾く資質に欠けると、
源氏は見做したのでしょうか。
時代的なことや、位人臣を極めたこの頃の立場的に、当然かも知れないながら、源氏は情以上に非常にシビアです。
それでも、明石女御の所生の皇子たちに、真に技術を託せる資質を期待している……
このように、ひとり息子である夕霧を相手に談義するのですが、
夕霧にもその資質はないと、言下に言われているようで、夕霧は恥ずかしく情けなく思います。
尊いものとされる
琴(きん)は、血筋や生まれ、そして資質、携わる者の心得次第で、弾き手を選び、生半可では許されざる、神の領域のもの。
そして、琴自身も、すぐれた弾き手を選ぶとされています。
たとえば『万葉集』に、大宰帥であった大伴旅人が、対馬のみごとな神木より造られた日本琴が、夢に娘子となって表れ、
「恒に君子の左琴とあらむことを希ふ」
と訴えたゆえに、藤原四子のひとり藤原房前に贈った話が見えます。
岡倉天心『茶の本』所収の、「芸術鑑賞」の章に、「琴ならし」という話があって、
龍門の名木で造られた琴が、帝をはじめ、どのような楽師にも鳴らせず、
琴の名手・伯牙により、初めてみごとな音を奏でる。
もとの話にたどり着けなかったのですが、おそらく、こうした特殊性が七弦琴には古くから付随しており、
「誰でもが奏でられるものではない」という高尚さゆえに、時の天皇でさえも弾きこなせぬならば、他の高貴な人たちからも畏れられたものかもしれません。
琴が人を選び、人も琴と響き合う。
心器一体の境地は、唯一無二の「知音」たる楽器に向き合う奏者としての、究極の理想です。
なまなまならぬ心意気にて
今の時代は、身分家柄など関係なく、
楽器も音楽も、文学も技能も、誰でも身近に楽しめるものへと変化しています。
お金さえ出せば、たいていのものは手に入るし、
ある意味、技能などなくても、音を出すことがたやすいものも少なくありません。
それは、文字通り音を楽しむ、音楽を友とする望むのある者には、喜ばしく望ましいことと思います。
難しく考え、高尚な手筈を踏まずとも、自分の音曲を表し、愉しむことができる。
けれども、その楽器、音曲と向き合う姿勢は、自分次第。
手に入れられたことだけが特別なことになり、努力せずとも音が出せ、
それで満足して、思い入れもなく、いくつものコレクションの山に埋もれさせるものであっては、
楽器でなくともなんであれ、道具が泣きます。
心惹かれ、やってみて、その結果自分には向かないと判断することも無駄ではありませんが、
私には、友であり、分身であり、自分自身の内面を表す手段が、楽器でした。
単なる道具ではなく、自分の声や、自分の意思を、自分だけの音として、音楽として表すことができる、もうひとつの身体のようなもの。
手頃に嗜むことはできるけれど、
自身が好む楽器は、自分自身の内側の何かと共鳴する、魂の発動手段でもあると思うので、それを嗜む際には、自覚と心得を忘れぬようにして、
響きを発動するように心がけたいと思うのです。
誰でもが同じ音を出せるのかもしれないけれど、
真に自分の音響波動は、他の誰にも表せない。
私の友である“真琴”も、誰でもが奏でて楽しめるように造られていますが、
私の真琴は、私だけに奏でられる唯一無二の琴と心得、
私も琴も、誰からも軽々しく扱われたくないと思っています。
私が琴を選んだのではなく、琴に選ばれるおのれでありたい。
琴そのものが、私の「知音」。
そして、おのれの魂を表す楽器・音具と共に、自心の音を表し、
それを真に理解し合え、共に楽しめる人こそ、
琴聖・伯牙絶弦の故事にいう「知音の友」なのだろうと、心得ます。
《参考文献》
犬飼隆氏
『儀式でうたうやまと歌 ー木簡に書き琴を奏でるー』
(2017.7 はなわ新書)
西本香子氏
『古代日本の王権と音楽 ー古代祭祀の琴から源氏物語の琴へー』
(2018.9 高志書院)
豊永聡美氏
『天皇の音楽史 古代・中世の帝王学』(2021.11 吉川弘文館)
©2024 瀧里しひな・ささがねのゆららことのね
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