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歴却不思議(りゃっこうふしぎ)

今朝、目に留まった、経文の一節です。

私は基本的に、自然の中にいて、わけもなく感じる畏怖や、
有名な、
〜なにごとの おはしますかは知れねども
   かたじけなさに 涙こぼるる〜 西行
の和歌のような、本能的な感覚をこそ信じ、祈りを捧げており、
集団心理的な宗教や信仰には関わっておりません。

これは、初めてひとり旅をした時から、実感している感覚で、
ひとりだからこそ、身を守るため鋭敏になった感覚のうちに、理由もなく湧き上がる畏怖や畏敬。
大岩や大木、大滝や大河や荒海、深山や、禁足の聖地など、
自然界や聖域において、自分とは異質で交わり得ないながらも、自分の何かがその一部であることを感じざるを得ない、高域の、仰ぎ見る次元のように思われます。
それは、具体的な信仰上の、名のある「神」とか「仏」とか「聖人」に対するものとは違う。
偶像も教義も象徴もなく、特定のものとして目に見えず音に聞こえず、ただなんとなくとしか言いようがない。
けれども畏怖し、心が感じて、手を合わせ心に満ちあふれてくる不思議な感覚です。

その際に、祈りとして浮かび上がる言葉は、私の場合は「和歌」と「波動を伴う調べ」となって表れてきて、
既存の、神道の祝詞や、仏教の経文になることはありません。

しかし、祝詞は美しくかたじけない何かに捧げる整った言葉であるし、
経文・経典は、有難いと思える文字が重ねられており、
人として、現し世で未知の領域を学ぶ教えとして、大切にすべき普遍のものと認識していますし、
神社仏閣を詣でた際に、その場における共通認識の祈りの言葉として、知っておくべき心得でもあるので、
善い言葉を、日々、目に耳に口に流すため、
自室に簡易的に備えてある神棚と、亡き父の香台に向かい、毎朝、唱えることを習慣としております。

経文は、自分の親もとの宗派にこだわらず、
個人的に惹かれるので、
『妙法蓮華経観世音普門品偈』を唱えていますが、
観音信仰の隆盛した平安期から、能楽などの芸能や、歴史あるお寺などの扁額によく使われる言葉が多いので、唱えていて勉強になります。
「念彼観音力」と繰り返す調子が心地よく、
お坊さんなどの法名も、このお経からいただいているんだなと気づく言葉も多い。

お経は、全部覚えていて暗唱できても、教本を開き文言を目に流しながら読み唱えるのがよいそうですが、
実際、その日にふと目に触れて離れぬ言葉があり、それにより気づくこともあって、

今朝、目に留まった言葉が、
歴却不思議
でした。

仏語としては、
どれだけ長く厳しく修行しても、仏の功徳は推し量り表すことができない偉大なものだと讃える言葉のようですが、

広義には、
どれほど永劫に思いめぐらせてもわかり得ない不可思議をいうそうで、

あ……この言葉、私が追い求めてきた研究の次元をあらわすものだ、と。

歴々の国文学、史学、伝統文化、民俗、芸能……
発祥以降、深く知りたいと望む人々が探究し、
古今数多の研究者が生涯をかけ、さまざまな論説が、有史以来おこなわれているものの、
なんらかの伝承が現存していても、それすら定かではなく、
どれほどの文献や、発掘、発見により、新事実が明らかになったとしても、
確実に特定し得る確証があり得ない、永劫に推し量る以上の真実がわかり得ない分野です。

義務教育内で定説とされ、試験で正解として教えられ記憶させられてきた「事実」など、時代を遡れば遡るほど、実は不確定で、
研究者にならなくても、時を経て、次の世代の教科書には、全然違う定義になっていて驚くことは、どの分野でもあると思う。
受験の時には、おかしいと思っても疑問を持つ余地などなく、あるがままに信じて正解とするしかなかったけれど、
受験合格後は、それらに興味と疑問を抱けば、否定検証することが可能になります。

史学・国文学の世界では、論証や現存する資料などから、だいたいの確定はできても、
何か新発見や、新説が出れば、一瞬で全部覆ることもあるし、
人の世である限り、人が何を思ってその歴史を作り上げたかも、創作された小説ではないのだから、当事者以外……もしかしたら当事者にもわかり得ない。

それでも、わからないから探究しても無駄とは思わないし、
わからない、確証がないからこそ、研究者の探究心は絶え間なく普遍的にあり続ける余地があるわけで、
専門外及び興味外の人からしたら、徒労で虚しいように見えても、
追い求めることが自分自身の生涯の糧ともなり得るわけです。

「歴却不思議」……永遠に答えのないことを追い求めることは、
自分の中の真理を追い求めることとも重なり、楽しくもある。

人の一生は、自分にとってわからないことを、得心できるすべを探し求め、追い求めて、自身を構築していく時間。

どんな賢者であっても、卓見はできても断定はできない。
学問に限らずこの世の森羅万象すべてが、「歴却不思議」そのもの。

誰もが納得する見解があったとしても、真実とは言い得ない。
誰かが悟り得た真理が、他の者にとっての真理になり得るとは限らない。
ただし、他者にとっての指針のひとつとはなり得ます。
釈迦もキリストも、先駆者ではあるが、追従を求めてはいないはず。
迷いが人それぞれ、また時代環境によっても異なるように、自身の迷いや悩みは、結局は自分自身にしか答えを見出し得ない。

時に研究者は、研究を通して、未知の答えを彷徨い渇望して探しつつ、
自分自身の深淵を探し求め、見識を得る喜びによって自身の意義を得ているのかもしれません。

今の時代、生きる自由と共に、
研究者・探求者は常に平等に、積み重ねと試論、議論により、それぞれの見識を組み立てる自由があります。
今生において、好奇心のままに探究すべきテーマを定め、知ることを求め学び考察しつつ追い続けられることは、
何をともなく求めさ迷うよりも、恵まれているような気がします。

経文からの一文に目を留めてから、
今日は一日、そんなことをつらつら思い続けていました。

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