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丁寧な暮らしってなんだろう

最近はどうしているかというと、実家でひたすらゆっくりしています。
とはいえ、実家はそこそこの大きさの家に何人か大人が住んでいるので、それなりに家の管理が必要です。掃除洗濯料理…家事をあげればいくらでも見つかります。この家に住む人はほとんど外へ働きに出ているので、(居候の肩身もあり、)調子が良いときはそれらに勤しむ日々です。家事手伝い、というもはや死語になりつつある言葉がありますが、今の私はちょうどそんな感じだなぁと思います。調子が悪いときはやっぱり動けないけれど、良いときは動いてないと身体が動かなくなってしまうので…。

恥ずかしながら、ちゃんと家事をするようになってから「家の事というのはどこまでもやれるのだな」と思うようになりました。
掃除一つにしても、ただ床を綺麗にするのが掃除ではなく、どこかに綻びがあれば直し、不要なものは適切に処分をし、ましてや掃除道具だって凝り始めたらキリがないですね。(インスタグラムのサジェストがほとんど家事のハックアカウントになりました)
食べ物だって、どんなものをどこから作るかで手間がいくらでも変わります。身体を壊したのもあり、ほとんどジャンクフードは控えて自炊をするようになりました。朝はパンを、といえどそのパンをどんなところで買うかにもこだわれるし、なんなら家で焼くことだってできる。面倒なときは適当にインスタントで済ませていた手順を、なるだけ意識して自分の手でやるようになりました。
あとは、もう部屋の片隅に追いやられつつあった裁縫道具を取り出してチクチクカタカタとやっています。元々好きではあったのですが、学生時代から少しずつ忙しさに追われるにつれ、離れていました。久々にやるとその単調な作業が心地よく、眠れないときの良いお供になっています。エプロンをはじめティッシュカバー、マスク入れ、家の中の何気ない布小物などをちまちまと作ったり。

これは最近作ったギャザー入りのエプロンワンピ。

最近YouTubeでは、いわゆる「丁寧な暮らし」を銘打ってこういう家のことが穏やかなチルポップともに流れる動画をよく見かけます。
私がやってることも、俗にいう #丁寧な暮らし  というやつなんだろうなぁ、と思います。コメントを見ていると、「こういう暮らしに憧れる」「癒される」「落ち着く」という言葉が目立ちます。かくいう私も大学時代からそういう動画が大好きで、よく見ていました。(inliving.さん とか、OKUDAIRA BASEさんとか)

そして、こういう作業の「価値」を時々考えます。

ざっくりに言えば、「家事って生きていく上で必要なおしごとだけど、家の中のことだからお金貰えないよね。だから社会的に価値がないことなのかな?」という話です。
それが資本主義経済の中では評価されないものだとしても、私は「価値がある」と思っています。直接的にお金は発生しなくても意味はあることなんじゃないかと。

1人で生きているならともかく、ある程度の大きさの家のことをちゃんとやるにはやっぱりある程度の労力と、そしてスキルが必要です。当たり前だけど、一朝一夕でなんとかなる話じゃない。
これまで母親に甘えていた自分が恥ずかしいなぁと思うのと同時に、やっぱり「仕事」なんだよなぁと思ったりします。

そして何より、家事をちゃんとやることは、「生きること」なのだと実感しました。それが、家事動画がいわゆる「丁寧な暮らし」と呼ばれる最大の理由なのだと思います。

与えられた既製品を無作為に食べ、着て、住んで。
あらゆる家事活動は、お金にさえ糸目をつけなければある一定ギリギリのところまで資本主義経済に「委託」できます。
ひたすらに労働市場で働き、それ以外の生活は全部投げ打っても、生命は十分に維持できる時代になりました。
でも、私たちは人間です。ロボットじゃないので、やっぱりそういう暮らしに「空虚さ」を感じます。
それは「市場で働くこと」だけじゃなく、「家で生きること」も人間の「生活=生きる活動」に含まれている証です。

日本語には「衣食住」という言葉があります。生活の基盤となる三つの要素。やっぱりここを充実させないと、"Q.O.L" 生活の質というのはどれだけ稼いでも上がらない。
それを作り上げる「家事」という仕事は、資本主義では評価されないけど、やっぱり大事な仕事だと思うんです。
「衣類を整える」「食べ物を整える」「住処を整える」という手順も、やっぱり呼吸と同じように、生きることの一つなのかなぁと思います。

そう、丁寧な暮らし、とは、丁寧に呼吸をすること、とある意味同意義なのかもしれません。

自分の手で作るの大事だから縄文時代に戻そうぜ!っていう話じゃもちろんなくて、(ある程度の手順はそれを生業とする人に貨幣価値と引き換えに委託するのが効率がいいのは、言うまでもないですね)
会社での労働は価値なし、というわけでも無論なく
「生きること」を充実させる「家事=いえのこと」という労働も人間にとっては確かに価値があるものなのだから、
無下にせず、誰もが向き合うべきだし、その価値を認めていこうね、という話です。

元来、家事というのは「やって当たり前」という意識が強く、その割には深く焦点が当てられない領域でした。それは家事をする場である「家庭」がとてもパーソナルな場所であり、それぞれの家庭の姿など見ることができず、また踏み込めない領域であったためです。
しかし、仕事、とよばれる労働を行う市場という領域がいわゆる「経済学」や「経営学」などで分析されているのと同じように、
家事、と呼ばれる労働を行う家庭という領域ももっと、公に分析されてしかるべきだと思うのです。

最近、YouTubeなどのSNSが発達し、ごくごく一般の人たちが自分の生活を切り取ってシェアするようになり、その姿が少し、公に垣間見られるようになったように思います。
なかにはその動画での広告収益で生計を立てる人もいる。もちろん編集の技術等あれど、「一般の人の暮らし」というものが市場の中の「コンテンツ」となり、それで金銭価値が生まれるというのは、なかなか興味深い事象だなぁなんて、思ったりします。ある種、家事というものの価値にみんな気付き始めているのかもしれません。

コロナ禍で働き方、日々の暮らし方が変わり、家で過ごす時間が増えました。
外に行けない今こそ「家の中で生きる時間」を大切にすることが、生きることをもっと充実させるに違いありません。

丁寧な暮らしは、人間が人間らしく「生きて」いくのにとっても大切な方法。
だから、SNSで良く取り上げられる一つのコンテンツになっているんだなぁと思いました。



おわり






余談

現代社会では市場こそがほとんどのコミュニティなので、今の私のような存在(生産労働から外れた家庭にのみ所属する人間)は社会に属せなくなります。
身体は壊してしまったけれど、できる限りで社会と交わりたいので、
家事をしながら調子を戻して、労働市場にも戻ることが、当面の目標です。(なんだかんだお金のこともあるしね…。)

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