評価が二分する映画『アバウト・タイム』こそ、考えるのではなく感じる作品だと思う。
また、観てしまった。
本当に失礼な言い方ではあるのだが、特別に真新しい映像表現があるとか、度肝を抜くような優れた脚本であるとか、後世に伝えたい名演技が光るとか、そういう映画史的にみる"すごい演出"は何もないのだが、年に1回ほど、ぼーっと観たくなる映画の代表格が、リチャード・カーティス監督の『アバウト・タイム』である。
一般的な評価は非常に高く、誰が書いたか分からない映画ブログでも、最高のデートムービーとか、お洒落なラブコメ映画などと称され、そんな口コミをもとに、本作を鑑賞したことがある人も少なくないだろう。
一方、旧ツイッターでのつぶやきや、ちょっと真面目に映画評論を述べている者の中には、本作を駄作だと言い放っているコメントもしばしば見かけることがある。
たとえどんな評価であれ、公開から10年以上経った作品が、未だに人々の心に残って、その感想が飛び交うというのだから、"大衆娯楽"としてはこれ以上ない成功だろうと思うのだが、そんな話は一旦置いといて・・・
最高!と最低!が、ここまで二分するラブコメ映画も珍しいなぁなんて思いつつ、たぶんわたしは大好きなんだろうと思う本作について、今日も今日とて語り散らかしていこうと思う。
本作にカンフーの要素は微塵もないけれど、ブルース・リーが言うところの「考えるな、感じろ」的な映画として、『アバウト・タイム』は長く愛すべき作品なのではないかなぁなんて思った、そんなお話をしようではないか。
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「意味が分からない」っていうのはやめよう。
まずはじめに。
これは本作に限った話ではないし、なんなら映画の話に限ったことでもないのだけれど、受け手として何かを享受したときに「意味が分からない」という反応を、わたしはなるべくしないようにしている。だから、みんなもそういう反応はしないようにしようよ!と呼びかけたい。
面白いことに、本作『アバウト・タイム』に対する否定的な意見の半数は「意味が分からない」という反応なのだ。(わたし調べ)
それはひとえに「ルールが矛盾している!」とか「ご都合主義だ!」とか「行動の動機が分からない!」といった、正確性の欠如に対する憤慨として見て取れる。本映画は、いわゆる「タイムトラベルのSFもの」であるがゆえに、そうした"ルール"には厳しい意見も数多あるのだろう。
しかし、時にそれは"敢えてそうしている"という可能性が秘められていることを、我々観客は忘れちゃいけない。
本作における「タイムトラベル」のルールは主に2つ。
・自分が経験した時間にしかアクセスできない(=まだ経験していない未来には行けないし、自分が生まれる前の過去に飛ぶことはできない)
・何度繰り返しタイムトラベルをしても、どうやら世界には何の影響もない(=自分の行動ひとつで世界情勢が変わるなんてことはない)
ということなのだが・・・
特に後者のルールに対して「あまりに都合が良すぎるだろ!意味わからん!!」との批判が多く見られるように思うのだ。
犠牲的精神や、目には目を歯には歯をのハンムラビ法典的な教えが好きな我々日本人からすると、なんの代償も無しに、好き勝手時間を行き来して良いものか!という、どこか倫理性にも訴えかけてくるマイナス意見が飛び交うのだろう。実をいえば、本作を初めて鑑賞したときのわたしの感想もコレだった。
しかし、その後何度か本作を見直すきっかけに恵まれて、年齢とともに鑑賞回数を重ねるうち、これは単に「自分勝手が過ぎる恋愛下手な男の物語」ではなく、「時間ないし情景そのものを描いた映画」なのでは?と気付き始めたのだ。
そのきっかけは、本作における映像表現そのものだ。
これまた一部の観客からは、『アバウト・タイム』における"意味の分からなさ"として、批判的なコメントをされていることでもあるようなのだが、本作には謎の「手ブレ映像」が組み込まれている。
それだけでなく、固定カメラにしたり、スロー映像にしたり、映像全体の色味を変えてみたりと、全編を通じてその映像表現には、本作のタイムトラベル並みにやりたい放題であることが伺える。
この手の技法において、よくある解釈としては、主人公視点の感情を表現するために、敢えて粗い映像にするとか、手持ちカメラに切り替えて不安定さを演出するなどといったことが挙げられるだろう。
だがこの映画に関しては、そのルールがあまりに曖昧なのである。監督のその場のノリか?と思ってしまうほど、気分で撮り方を変えている気さえしてしまうのだ。
これを逆説的に考えると、その不可解ともいえる映像は、主人公視点によるものではない、別の何かを表現している可能性があると言えるのだ。
ずばり、本作のタイトルは『アバウト・タイム』。
映像が表現しているものは恋愛下手な男の子ではなく、彼らを取り巻く「時間そのもの」として観るべきなのではないか、という話である。
至極当たり前のことであるが、我々人類に与えられた共通の価値ともいえるものが、時間である。こればかりは、生まれも所得の多さも関係なく、すべての人に等しく、1日は24時間、1年は365日と、決まった時間が割り当てられている、抗いようのない事実だ。
それとは別に、我々は時間に関して興味深い真実も知っている。
それは、楽しいときは時間の進みが早く、反対につまらないときは時間の進みが遅い。緊迫したときには時間が止まっているようで、幸せの絶頂期では自分が時間を制御しているかのようである、などということだ。
つまり、この映画はタイムトラベルというSF要素をツールとして、主人公が体験する時間の"事実"ではなく、メインキャラクターを据えた時間の"真実"を語る映画として、特異なルールや映像表現の適当さを用いているのではないかと思うのである。
たとえば、大好きなあの子とはじめて顔を合わせる夜の出来事。
悪友に連れられて渋々過ごした時間と、
運命の出逢いがあると信じて過ごした時間と、
あの子のことよりも心配な家の事情を抱えて過ごした時間とでは、
その時間の進み方、扱い方、向き合い方に違いが滲み出てくるのは歴然だろう。どれも1秒たりと変わらない同量の時間であるにも関わらず、すべて同じ時間ではないことは、皆までいう必要もない。
そうした時間に関する真実を描き出そうとした結果、ルール無用のタイムトラベルと、法則性のない映像表現が映し出され、鑑賞者によっては「意味が分からない!」のひと言で一蹴されてしまうのかもしれない。
その気持ちも分からなくないが、もしかしたら視点の置き場所が変わるだけで、その曖昧な映像表現や、タイムトラベルに関する特殊なルールが、何重にも面白いものに映る可能性をわたしは伝えたい。
そうは言うものの、時間そのものの視点で描かれる映像ってなんだよ、という意見はごもっともである。その意味で、わたしはこのラブコメ映画を考えるのではなく、感じてみることが重要なのでは、と言いたいのだ。
同じ量の時間だが、まったく質の異なる時間。
そんな「時間について」感じる作品だと捉えてみたらどうだろう。
『アバウト・タイム』における"身勝手さ"に疑問を呈している方がいたら、一度この映画が映そうとしている「時間」そのものに着目してみるのも良いかもしれない。
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とはいえティムはずるいのか。
前段の説教臭い考察を踏まえた上で、とはいえ…なのである。
とはいえ、本作のメインキャラクターであるティムはずるいのか、という話である。
これに関しては、男性性を持って生まれ、恋愛に関してもストレートな異性愛者であるわたしの個人的経験による、ある種の願望が(多分に)含まれた考察だと思うので、必ずしも読者の共感を得られるとは思っていないのだが…ここで、キザな台詞を恥ずかしげもなくご披露するのであれば、「運命が引き寄せるだけなんだから、ずるいってことはないんじゃない?」という、この考えに集約させたいと思う。
本作の好き嫌いが分かれる別の要因のひとつとして、わたしは「運命を信じているか否か」が影響しているような気がするのだ。
早い話、運命を信じている人は、この映画が大好き!と言えて、運命を信じていない人は、この映画あんまり好きじゃない。と言う傾向にあるのではないだろうか。
この映画におけるメインキャラクターであり、タイムトラベルの使い手である男性ティムは、その能力を最大限活用して、とんでもなく可愛い彼女をゲットしたのち、結婚して、家庭を築くに至る。その過程を、イギリスの豊かな暮らしぶりを背景に、面白おかしく見せていくわけなのだが…結局のところ「すべてを自分の思い通りに動かしていく」という様が、どうにも観客の評価を二分する所以なのである。
「なんだよティム…お前ずる…」という感想を抱く心理もまったく理解できる話だが、そこには「運命」などという、ロマン至上主義も甚だしい劇的な思想の有無が見え隠れするのだ。
つまり、ティムがどんな手を使って、レイチェル・マクアダムス演じる激かわ彼女をゲットしようとも、それはティムの策略というより、そういう運命によって導かれし、決まった結果なのだから、ずるいことはない、という考えである。
そうした運命を信じた上でこの映画を観ると、それはなんともロマンチックで、胸キュン不可避の物語だろう。ティムがずるい、なんてことはこれっぽちもなく、むしろその運命を信じて貫く一途な愛は、ただただ美しいだけである。
だがこれは「運命」と表現すればロマンチックに聞こえるものの、一方では「予定説」や「未来は決まっている」と似た話でもあり、その意味では非常に面白みのない話ともいうことができる。
そう考えると、この映画は「ずるい話かどうか」というより、つくづく「つまらない話」なのである。
誰にも等しく流れる「時間」そのものを主軸として、その「時間」の行きつく先は、予め天上の何者かによって決められた「結果」のみ。
映画に観る2時間は、ただそれに至るまでの過程を、タイムトラベルという要素を用いて、複数回に分けて見せるだけ。どれを選択しようが、何を決断しようが、別に結果は変わらない、という見方しかできない映画だともいえるだろう。
しかしその上で、この映画は思いもよらない答えを提示したところで終わりを迎えるのである。
それは、時間は不変だからこそ、運命は決まっているからこそ、タイムトラベルができるからこそ、その過程を繰り返すのではなく、その日、その時、その一瞬に、すべて感動して生きるべき、ということだ。
もちろんこのメッセージが、いささか叙情的過ぎた、平和ボケともいえる空論であることは言うまでもない。
だがそんな生き方を真に受けるかどうかは別として、このような作品を愛し、素敵だといえる人の心は、例外なく甘美なものである気がしてならない。
運命を信じたその先で、その決められた一生を全うする姿は美しい。
映画の見方だけでなく、映画を読み取る観客側に見ても、「運命」などという空虚なものを(考えるより)感じることで、その美しさが垣間見れる作品なんだろうなと、そんな風に思えるわけだ。
まぁ、そうしたメッセージを観客に突き付け、自身の美徳を惜しみなくスクリーンに映し出して去っていくという意味においては、ティムはかなりずるいキャラクターであるわけだが。
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余談だが。
そして最後に余談だが、本作にはわたしの大好きな台詞がある。
ここまで御託を並べてきたが、そんなやかましい素人考察はどうでもよくて、たった1つの台詞にわたしのハートは射抜かれているという話なのだ。
それは、メインキャラクターであるティムが、レイチェル・マクアダムス演じる理想の恋人とはじめて出逢った夜のこと、彼女の電話番号をゲットしたときの、気の利いたひと言だ。
こんな台詞を、わたしも言いたい。
そして思う、こんな台詞が言えるティムは、やっぱりずるいのかな、と。
こんな言葉に対して、その意味や、意図や、裏を考えるなんてナンセンス。
いい台詞だ…ただそう感じて、その場の空気と、色と、音と、時間に身を委ねるだけで十分ではないか。つまるところそれが、ティムがいうところの、毎日に感動して生きること、にも通じるわけだが、そういう些細な言葉の良さに気付かせてくれるのが、こういう映画だと思う。
やはり評価が二分する作品だからこそ、考えるのではなく感じる映画だと、わたしは思う。
『アバウト・タイム』に酔いしれる時間を愛おしいと思える、わたしのレイチェル・マクアダムスは何処へ…などと思いながら、今回はこのあたりで結びとしておこう。
今日は『アバウト・タイム』のやかましい映画語りであった。
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