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人生すぎるから『パルプ・フィクション』を流し込む。

The path of the righteous man is beset on all sides by the inequities of the selfish and the tyranny of evil men. Blessed is he who, in the name of charity and goodwill, shepherds the weak through the valley of darkness, for he is truly his brother’s keeper and the finder of lost children. And I will strike down upon thee with great vengeance and furious anger those who attempt to poison and destroy my brothers. And you will know my name is the Lord when I lay my vengeance upon thee.

正しき者の道は、悪しき者の不埒な偏見と暴虐によって行く手を阻まれる。暗闇の谷に迷う弱き者を、愛と善意によって導く者に幸いあれ。なぜならその者は、仲間の守り人であり、迷い子たちを救う者なり。そして我は仲間たちを汚し破滅をもたらす汝らを、大いなる復讐心と激しい怒りをもって打ち倒すであろう。そして復讐が遂げられしとき、汝らは我が名が主であることを知るであろう。

引用元:https://www.tomtom55.com/pulpfiction10/


今さらの『パルプ・フィクション』である。
本作に特別の思い入れがあるわけではないし、改めて世界中のオタクたちに異論を呈すような変態じみた考察をしたいわけでもない。ただ、こういう映画こそ、時に人の心を癒し、明日を生きる活力となり、人生だなと笑える要素をもたらしてくれることもあると、そんなことが言いたいだけなのである。


世の中は広くて狭い。

タランティーノの大出世作となった『パルプ・フィクション』だが、その評価は1994年のアカデミー賞脚本賞受賞という形で映画史に刻まれている。監督賞でも作品賞でもなく、脚本賞の受賞。まったくアカデミー会員たちは、本当によく映画を観ているなと感心してしまう。(お前誰だよ)

ずばり、本作の凄さはその脚本にあるというわけだ。
・不良カップルがダイナーで語り合う「プロローグ」
・ギャングのボスの妻の世話を頼まれた男「ヴィンセント・ベガとマーセルス・ウォレスの妻」
・落ち目のボクサーと八百長試合の一連を描く「金時計」
・ギャングのボスのアタッシュケース奪還と死体処理に奔走する「ボニーの一件」
・そして物語のすべてが繋がる「エピローグ」

言葉で書くと、より一層何が何やら…という感じだが、本作はそんな5章仕立てのオムニバス形式で1つの物語を成している。
各話はすべて同一の時間軸の中で起こる話であるが、その時系列はバラバラ。しかし、それぞれのキャラクターが発する訳の分からない台詞を一旦抜きにしても、その時系列順を考えるだけで十分楽しめる作りをしている、というのが本作最大の特徴だ。
簡単に言ってしまえば、エピローグまで観ると、それまで観てきた各話の時系列がすべて分かるように(逆にいえばエピローグを観るまでは時系列が分からないように)作られているという点で、その珍しくも完成され過ぎた脚本が世界的に評価された、ということなのである。

だがきっと皆は思うだろう。
確かにその脚本の作り方は凄いかもしれないけど、それが何なの?と。

巷に溢れた映画評では、それがタランティーノ節なんだよとか、ただ無駄でカッコいいものを詰め込んだだけなんだよとか、そんな陳腐な言い回しに溢れているが、この脚本が持つ力はもっと大きく、もっと普遍的なそれ、すなわち"世の中"そのものを描こうとした結果なのではないかと思うのである。

少しばかり飛躍した話にはなるが、映画という娯楽は、スクリーンに映し出された張りぼての映像という特性から、しばしば1視点の没入感に特化した作品が作られることが多い。観客はただ一方的に画面に映る人を見ているだけで、その人がどんな生い立ちで、どんな信念をもって、何を成し遂げたいのかが自動的に分かるようになっている。舞台演劇のように空間を使うということもできない以上、たとえそれが本作のようにオムニバス形式の群像劇というジャンルをとっていたとしても、その実態はあくまで主人公1人の視点から見た群像であったり、各話ごとに主人公を変えるということで、群像劇っぽい見せ方を実現しているものがほとんどだ。つまり、結局は自分ではない誰かの視点を借りた、非日常のおとぎ話に過ぎないと言えるだろう。(これが悪いわけじゃない)

一方、本作『パルプ・フィクション』においては、物語を先導するものが何ひとつない。主人公はいないし、そこに映るキャラクターの行動原理も分からない。説明なしにいきなり会話が始まったかと思えば、大したオチもなく、物語に重要な意味をもたらすこともない。映画なのに、それは空間そのものと言える。よく分からない間に、なんだか場面だけがどんどんと進んでいってしまう、ある種映画としては崩壊している作りだが、そこにおかしすぎる"日常"を感じ取ることができるのだ。先の言葉になぞらえて言うならば、おとぎ話なのに日常的過ぎる物語、それを『パルプ・フィクション』と表現することができるだろう。

物語の起点と終点を飾るのは、何の変哲もないダイナーだ。たとえば、いまあなたが物語と同じように、カフェでゆっくりコーヒーを飲んでいるとして、隣に座っている人の名前や性別や職業を完全に理解することはできるだろうか。否、そんなことは分かるはずがないのである。日常過ぎるおとぎ話とは、これを地で行く作品だと言えるだろう。

いまこの時間、同じ時を生きて、同じカフェにいて、同じコーヒーを飲んでいるにも関わらず、その偶然の裏に何があるかは知る由もなく、ただ、その時間だけが流れている。俯瞰して見たらあまりにおかしすぎるそんな現象を、いや、そんな"世の中"の全貌を、映画の形に落とし込んだ作品が、わたしは『パルプ・フィクション』なのではないかと思うのだ。

本作を鑑賞するたびに、世の中は広いし狭いよな、なんてことを思ったりする。
生きているのがこんなに楽しい!と思っている人がいるその裏で、死体処理に頭を悩ませている人がいて、好きな人ができました!と新しい愛を育むその裏で、人に激しく失望し孤独の道が開く者もいたりする。当人にしてみれば、それは"映画"にも負けず劣らずの、劇物語の主人公と錯覚するのかもしれないが、全部、同時期、同時刻に起こり得る、なんでもないことなのである。ものすごくミクロな視点で、人の倫理やら、情なんてものに、限りない正義を振りかざすのであれば、そのすべてに目を向けて、共に喜んだり、共に悲しんだりすることが善である。でもそんなこと、できるはずがない。そんな世の中に、なんて言葉を当てられるか考えたら「パルプ・フィクション(安っぽい小説)」くらいが丁度良いのかもしれないなと思う。この脚本は"世の中"そのものなんだよな、とわたしは思い、そのくだらなさに救われる瞬間が幾度となく訪れるのである。


スプライトで流し込んで人生。

本作を面白おかしく観るための視点は、実に様々なポイントがある。ある映画評では、タイトル『パルプ・フィクション(トイレットペーパーの意味が当てられることもある)』に着目し、ジョントラボルタ演じるヴィンセントが、肝心なときに必ずトイレに行くことで場面が大きく展開する、これはトイレに行く映画だ!と表現しているものがあり、実に面白い考察だと思った。

わたしもこれに対抗するわけではないが、ここでは同じく印象的な登場を見せる「食事のシーン」に1つ視点を置いてみたいと思う。

そもそもタランティーノの監督作品において、本作に限らず食事のシーンを(無駄に)細かく描くことは特徴のひとつである。「食事」にどんな想いを込めているのか、そのすべてを知るのはタランティーノただひとりではあるが…彼の性癖的なそれを無視して考えるならば、何かを「食す」「噛む」「取り込む」「咀嚼する」という行為は、何らかその前/後で、その人が生まれ変わることを意味するような、その変化の途中経過を表現しているものと捉えることができるような気がしている。

特に本作においては、映画史に残る名シーンともいうべき、サミュエル・L・ジャクソンの、ハンバーガーをスプライトで流し込む一幕がある。この作品ほどに、鑑賞後のバーガーを美味しく感じられる映画はない。だが、ただ美味しそうにバーガーを食べるだけであれば、それはただのグルメロケ芸人のほうが上手だろう。彼が演じるそれは、バーガーではない、もっと別の何かを咀嚼している、その様子がひしひしと伝わる名演技を映し出しているのだ。

本記事の頭に、訳の分からない文章を引用した。本作『パルプ・フィクション』で、サミュエル・L・ジャクソンが発する長尺セリフの一節である。「旧約聖書のエゼキエル書25章17節」からの引用であると語られるこの文言は、本作の中で唯一最もらしい、意味ありげな語りとして登場する。殺し屋である彼は、"仕事"をするときにいつもこの決め台詞を述べてから事を済ませるということらしいが、劇中彼はこの言葉の意味なんか考えたことはないと明かす。そもそも実際のエゼキエル書にこんな文言の記載すらなく、メタ的な映画の小ネタとして解説すると、タランティーノのお気に入りである千葉真一の主演映画『ボディガード牙』のアメリカ版の冒頭に流れるナレーションを暗唱しているだけという…驚くほどになんの脈絡もない、無意味な会話劇を楽しむ一幕だとするオチが、ファンの間で広く知られているのだ。

しかし、それを単に粋(?)な演出だな~、贅沢な役者の使い方だな~、で終わらせてしまうのは、本当に正解なのだろうか。
肝心なのは、その言葉が本当に存在するものかどうかを見定めることではなく、はたまたタランティーノの隠した膨大な小ネタの正解を見つけ出すことでもなく、嘘でも、無駄でも、虚像でも、そのものを自発的に咀嚼するかどうか、自らの手で自らの胃に流し込むことができるかどうか、そんなことを暗に問いているのではないかと、わたしは思うのである。

あまりにイカした映画の幕引きに、最終的なサミュエル・L・ジャクソンの"変化"を忘れてしまっている観客も多いかと思うが、起承転結のない本作の中で、彼だけは今の"仕事"から足を洗うことを決め、「導く者」になりたいと主体的な言動を見せている。映画冒頭20分で訪れてしまう彼の食事シーンは、そんな彼の心情の変化をゆっくりと映し出し、自分で味わって、自分で疑って、自分で食べ切って、それで初めて人生を生きることができると、一種の定義づけをしているようにも見えるのだ。

その意味では、明かされることのない本作最大の謎ーーアタッシュケースの中で光り輝く"何か"ーーは、人生そのもののメタファーなのではないかと、わたしは感じている。自らの意志で人生を咀嚼した(バーガーを頬張った)ジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)と、ギャングの指示で人生を終えた(バーガーを食さなかった)ヴィンセント(ジョン・トラボルタ)とでは、おそらくあの輝きも異なる様子だったに違いない。

それはたとえ、味わい尽くすという余裕がなく、スプライトの勢いに任せて無骨に胃の中へ流し込んだとしても、一辺倒な"答え"を求めるだけでなく、複雑に絡み合った"導き"を乞うことの重要性を感じられてしまうのである。
この例が適切かどうかは分からないが、現実においても、生きる気力を阻害するような出来事が起きたとき、まず真っ先に人は「食事」ができなくなるだろう。少なくともわたしはそうである。「食事が喉も通らない」という状況の辛さは、わたしにも痛いほど分かるが、そのまま食すことを拒めば、それは実質的な"死"であり、逆に流し込むことさえできれば、それは少しずつでも"生"きることへの一歩として人生の導きを得ることができる。

果たして本作が、如何様なメッセージを込めて制作されているのかどうか、そんなことは知ったこっちゃないが、製作者の意図をすべて知るということより、時に大事なことがあるのではないかと思う。というより、そうして自分らしい"ものの見方"を確立していくことが、自分の人生を謳歌するために最低限必要な意識なのかなと思っている。『パルプ・フィクション』で描く「食事のシーン」には、そんなメッセージもあるのではないだろうか。


でも、そんなに色々と考えてみたところで、結局"世の中"は「パルプ・フィクション(安っぽい小説)」なんでしょ?と言う人もいるかもしれない。

まさしく。

が、無駄と書いて贅沢と読む、『パルプ・フィクション』を最高の映画だと評価する、そんな軸が単純な話、わたしは最高にかっこいいと思ってしまうのだ。そこになんで?なんで?という疑問を抱かれてしまうと、何とも言葉に詰まってしまうのだが、サミュエル・L・ジャクソン演じるジュールスの最後の台詞を借りるならば、「真実は、お前が"弱き者"で、俺は"心悪しき暴虐者"だ。だが、俺は努力するぞ。羊飼いになれるように、全力で努力する。」ということなのだろう。

今回はもう『パルプ・フィクション』を観て涙を流したから、わたしもクソ財布を携えてさっさと店を後にしようと思う。

まったく本当に、良い映画だよ。

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