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"悪の神格化"を防ぐ『ジョーカー: フォリアドゥ』の話。

1作目と2作目で、ここまで評価が二分するシリーズある?と思ってしまうほど、予想外の形で盛り上がり(盛り下がり?)を見せるのが、2019年公開の映画『ジョーカー』の、その後を描く続編『ジョーカー: フォリアドゥ』だ。

直訳で"二人狂い"を意味するフォリアドゥ(folie à deux)は、フランス語で妄想性障害を表す言葉だそう。


おそらくこの記事を開いた皆さんは、早い話「面白いの?面白くないの?」という結論をまず知りたいことだろう。

ということで、早速結論から申し上げると。
ひろひろ的本作の評価は…

「完璧な続編じゃないか!!……ラスト以外は。。。ね。。。」という感じ。(曖昧)


よって、"終わりよければすべて良し"が正だとするならば、確かに世間一般の評価は妥当なのかもしれない。
が、だからといってここまで多くの"民衆"が本作を「駄作」のひと言だけで片付けてしまうのはどこか間違いな気もする。

それはひとえに、前作『ジョーカー』で悪のカリスマの誕生を描いたことに対する、"本来あるべき"アンサー、つまりは『ジョーカー: フォリアドゥ』が悪の神格化を防ぐための1作として機能しているからだ。

ジョーカーに熱狂し、ジョーカーの誕生に歓喜し、ジョーカーが我々の代弁者でもあるかのように"神格化"され(てしまっ)た前作の罪滅ぼしとして、間違いなく『ジョーカー:フォリアドゥ』はここに封切られたと考えられる。

‥‥とかなんとかいって、相変わらず記事冒頭から何やら偉そうな口を叩いているが、無論、わたしは社会学者でも映画解説者でもない。ただの"アメコミ好き"、"映画好き"だ。そのスタンスだけはブラさずに、本作の感想をここに書き残しておこう。

これは前作の公開時から皆さんに聞きたいんですけど…
人間味のあるジョーカーってどうなんですか?笑
それに関してわたしは1作目から「うーん…」と思っているんですが。笑




***


賛否両論の「ミュージカル演出」は最高じゃん!


まずは本作のGOODポイントからお伝えしよう。

『ジョーカー:フォリアドゥ』が酷評されている理由の1つに、前作との作風が違い過ぎるという指摘がある。
そう、今作は『ジョーカー』の紛れもない続編でありながら、突然のミュージカル演出を取り入れてきたのだ。

ゆえに、ここがハマらなかった方からすると、本作の2時間半は苦痛でしかないものだったと思う…笑
が、個人的には、2作目で花開いた"ミュージカル演出"は大変好みのものだった。
むしろこれがなかったら、まったくの救いようがない鬱映画の爆誕だっただろうと思いゾッとするほどである。

本当に恐ろしいのはホアキンフェニックスの役の振り幅って話もあるけどな。


確かに前作『ジョーカー』からの思いがけない振り幅の大きさに、テンションが付いていかない観客も少なくなかったと思うが、個人的な評価としては映画の"見やすさ"を格段に上げた最高の演出だと思っている。

ホアキンフェニックス演じるジョーカーについては、前作から多くのファンが考察している通り、どこまでが"ジョーカー"で、どこまでが"アーサー"であるのか、その線引きが非常に曖昧な作りになっている。

人によっては、これはジョーカーなんかじゃない。アーサーというただの恵まれない男の話だ。と一蹴している意見もあり、それに関してはわたしも半分賛成している節がある。

しかし本作はというと、タイトル「フォリアドゥ(二人狂い)」が意味するように、明確な「アーサーパート」と「ジョーカーパート」に分かれている。
「辛い現実をを真に受ける」のがアーサーで、「辛い現実も歌い踊る」のはジョーカー。
その対比をミュージカルという技法で観客に伝えたのは、映画的になかなか面白い試みだったと思う。

特に前作『ジョーカー』において、チャップリンの名曲「SMILE」を印象的に使用していたことを思うと、現実を近くで見るアーサーは悲劇、現実を遠くから見るジョーカーは喜劇、と見える今作は、作り手の本来見せたかった"世界の構造"なのではないかと思えるほどだ。

「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」
ー Charlie Chaplin(チャールズ・チャップリン)


そこまでの映画史的なメタ演出を考慮せず、単に自分たちの実生活を振り返った場合でも、ひどく落ち込んだ1日の終わりに、爆音で好きな曲を掛けながら家路につく、なんてことは、誰しも一度や二度、またはそれ以上にあることだろう。
そのとき、どの道をどうやって通ってきたのか、誰とすれ違ったのか、どんな天気で、どんな香りが立ち込めていたのかなんてことは、何も覚えていないはずだ。つまり、自分でありつつ自分ではない、まさに"フォリアドゥ"の状況に、アーサーだけではない、日々誰しも陥る可能性があるはずなのだ。

それを踏まえたとき、そんな自分自身の弱さと、本作におけるミュージカルシーンというのは、嫌というほどリンクする力を持っている。
言うなれば、誰の心にも「ジョーカー」はいる。その事実を、軽快なスウィングジャズやブルースのナンバーに乗せて、ミュージカル仕立てにした本作は、どう考えても"面白い映画"(のはず)である。

華やかなミュージカルの中に見る緊迫感、不信感、足元のおぼつかない不安感が凝縮されている様は、確かにひどく心えぐられるシーンではあるものの、映画の表現としてもっと評価されていいと、わたしは思う。

むしろ、あのミュージカルシーンに何の感情も動かず、つまらないのひと言で片付けられる者は、それだけ自分の人生が豊かに輝き続けていることを自覚して感謝すべきだ。(とまでは言わないけど。あれを「訳わからない」って言えちゃう人は、本当に幸せな人生を送っているんだなぁと思わないこともなくもない。舐)

「ミュージカル」というジャンルそれ自体の好き嫌いは仕方のないことだと思うが、「アーサー」から「ジョーカー」、「惨めな自分」から「強がる自分」へと切り替わるタイミングに、「ミュージカル」という技法を用いた本作は、もっとシンプルに面白く観るべき一幕だと思うのだが、皆さんはどう思うだろう。

このシーン最高すぎて痺れた。


***


しかしラストは「あれ」で良かったのだろうか?


そんなわけで、2時間半の本編のうち、わたし自身(途中まじでずーんっと心やられることはあったけど)2時間は心の底から楽しんで本作を鑑賞していた。

しかし後半30分、映画のラストに関しては、正直「うーん…」という感情が芽生えたことも事実。

いや、もっと正確にいうならば、1作目『ジョーカー』という作品をこの世に生み出してしまった以上、「あのラスト」しか作りようがないのだが、果たして本当にそれで良かったのか‥‥というところなのである。


記事のタイトルにも据えている通り、本作が制作された目的は「悪の神格化を防ぐため」でしかないと、わたしは感じている。

1作目のラストで表現された通り、アーサー(=ジョーカー)は、6人の民間人を殺害したにも関わらず、その存在が一部の人間からは神のように崇められ、いわばジョーカー崇拝が起きていた。
権力を持ったもの、影響力を持ったもの、自分を苦しめたものを殺害して何が悪い、と言わんばかりに、ジョーカーの愚行を称賛する声というのが決して少なくない、そうした支持者によって悪のカリスマは誕生したという、リアルな社会構造を如実に映し出していた。(元ネタはただのアメコミなんだけどね。)

1作目のラストはその後、悲劇とも喜劇とも取れる映像で、ジョーカーが精神病棟から血の付いた靴でバタバタと逃走するスローモーションで幕を閉じた。果たしてそれが現実だったのか、それとも夢だったのか。ジョーカーは街に解き放たれたのか。アーサーは死んだのか。様々な考察も飛び交い、映画の中も外も、紛れもなく「ジョーカー」に熱狂したといえるだろう。

1作目のラスト、天才すぎるよね。


しかし続く2作目では、案の定「犯罪者:アーサー」として留置場で生活している様子から始まった。

そう、どんなに「ジョーカー」を支持する者がいようと、本人がどんな精神疾患を持っていようと、現実はこう、人生とはこういうもの、という「事実」を突き付けたことが、2作目の2作目たる所以だ。

したがって、これはもはやネタバレにすらならないだろうが、本作のラストは今皆さんが想像している通りの結末である。

アーサーは確かに恵まれない家庭環境だった。
アーサーは確かに精神疾患を患っていた。
アーサーは確かに愛に飢えた人だった。

だから、そうだね人を殺しても仕方なかったね。

‥‥とは、ならないのである。


監督はある種、その"責任を取る"形で、2作目の「あのラスト」を撮らざるを得なかったものと、わたしは推察している。

事実として、1作目『ジョーカー』公開後、我が国でも「ジョーカー」なる名前を名乗って起きてしまった悲惨な事件があっただろう。
『ジョーカー』は、別に悪役を擁護するための作品ではない。辛い現実が横たわれば何をしてもいいという救済でもない。
その"当たり前の事実"を、『ジョーカー:フォリアドゥ』では映し出しているのだ。

赦しって難しい議題だよね。
視点の置き場所によって、人の意見なんて簡単に変わるもん。


が、それはそれとして。
本当にそれが(映画としての)正解だったのかは疑問だ。

前段の通り、2作目で「ミュージカル」という技法を用い、人が持つ"二面性"を表現したのは非常に面白いものだった。
だが、総じて「あのラスト」がシリーズの「オチ」になるくらいなのであれば、それは1作目『ジョーカー』が封切られた際の、観客による考察や想像に委ねておくだけでもよかったのではないか、と思う。

かつてスタンリーキューブリックが『時計仕掛けのオレンジ』を制作し、その後あの作品に関するアンサーが作られないのであれば、『ジョーカー』もあの単体作品で十分だったのではないか。
かつてマーティンスコセッシが『キングオブコメディ』を制作し、その後あの作品に関するアンサーが作られなかったのであれば、『ジョーカー:フォリアドゥ』も必要なかったのではないかと思わざるを得ない、という考えだ。

前作『ジョーカー』を観たとき、
真っ先に浮かんだ2作品です。


この物語が『ジョーカー』1作で終わっていたならば、それは間違いなく「伝説」であり、「神格化」されたものであったに違いない。
が、『ジョーカー』における「ジョーカー」がそうなることを望まなかったとすると、やはり続編を作るしかなかった。
エンタメとして、また社会への警鐘として、それぞれにパワーを持つ「映画」の、難しい選択だっただろうと、わたしなんかはそう思う。そのなんともいえない結果が、批評家の、観客の、この評価だとすると、それは実に面白いものである。

つまるところ、映画のオチに関しては「あー、やっぱりね」「まぁ、そうだよね」という感想に落ち着く人がほとんどだろう。

さすればきっと、その後に続く感想は「所詮映画だから。」「言うてもアメコミだから。」のひと言で片付けられ、世間一般における『ジョーカー』の物語はこれで終わりを告げたと見える。

大衆娯楽としてではなく、社会のあるべき姿を取った結果。「悪の神格化を防ぐ」という目的が達成され、ジョーカーにお熱となっていた者たちが"馬鹿"だっただろうと見せしめる本作は、社会的には成功?映画的には失敗?なのではないかと思えるわけだ。

それって、まぁ、切ない話ではあるんだけどさ。


***


それでもわたしはこの2作目を愛したい。


だが、わたしが思う2作目の本当の価値は「ミュージカル要素」でも「社会的なジョーカー抹殺要素」でもない。

劇中で放たれた、たったひとつの台詞だ。
これがあるだけで、わたしはこの2作目を愛せると思った。

誇張表現があったら申し訳ないが、劇場でわたしが身震いした台詞、それは‥‥

みんな道化が欲しいだけ

というものだ。
これを、ジョーカーが、いや、アーサーが、劇中で大衆に向かって言い放ったのである。

映画の後半戦は、まじで現実にあった話だっけ?って錯覚起こすほどの勢いで攻めた映像してるよ。


道化:
見る人を笑わせるようなおもしろく、おどけたことばおよび行動

誰しも、自分の人生が泣きっ面に蜂で終わりたくはないだろう。
ゲラゲラ笑って、後腐れなく、なんの責任も負わず、ニコニコしていたいに決まっている。みんながみんな、道化を欲している。無責任に笑えるものを求めて日々生きているという、その言い逃れできない真実を、2作目で遂にアーサーないしジョーカーが言い当ててくれたのである。


これはもちろん、自分と自分以外の誰か、という意味で考えるのが一般的だろう。
自分ではない誰かがふざけて、(本来そんなことはないのに)馬鹿にしていいという状況については、例外なく面白いとされている。

その"おもしろ"の奥底には、「良かった自分じゃなくて」という安堵もあるだろうし、「馬鹿だなこいつは」という優越もあるだろう。笑いの根底には必ず「誰かを下に見ている」「馬鹿にしている」という行為が含まれているはずなのだ。

その意味でわたしは『雨に唄えば』や『ロジャーラビット』などといった「笑い」の意義を問う要素が含まれた映画を大変評価していたりもするのだが、ジャンルは大きく違えど『ジョーカー』ないし『ジョーカー:フォリアドゥ』も「笑い」に関しては非常に面白い見方ができると思っている。

「笑い」ってなんだろうね。
「ユーモア」ってなんだろうね。


一方、本作で「みんな道化が欲しいだけ」と言い放ったその台詞の裏には、そうした見世物的な笑いの他に、自分自身の中における「道化」の必要性についても問いている気がするのだ。

分かりやすく言うと、それは「自虐」というやつである。


人は自分ではない他人に「道化」を求める一方、無意識的に自分自身にも「道化」を求める生き物なのではないだろうか。

いつの時代も、誰の人生にも、真面目に生きるのが馬鹿らしくなる瞬間はある。
自分の人生があまりに惨めすぎて、笑うしかできなくなるというときが必ずあるだろう。

そんなとき、少なくともわたしは「自虐」に走ることが多い。自分の中に眠る「道化」を呼び起こし、他人に笑われ、自分で自分を笑うことでどうにかしようとするわけだ。

もちろんこれが悪いという話ではない。
人生なんて悲観的になることばかりが起こるもので、自虐的にへらへらできなきゃやってられないものだ。しかし「道化」が「道化」でなくなるほどに追い込む必要はどこにもない。

劇中でのアーサーは、確かに精神疾患を負っていたのかもしれない。
が、それ以上に、誰の心にもある自分自身の「道化」に、彼は悩まされていた可能性もゼロではないと思うのだ。


その意味で、自分を笑わなくていい、また「道化」の哀しさを教えてくれる(レディガガ演じる)ハーレイクインの登場は、なくてはならないものだったと、わたしは思う。

原作アメコミでも、ジョーカーとハーレイの関係性についてはいろいろ深掘りし甲斐があるんです。


だが、化けの皮を被った道を歩み続けたとて、現実は現実、事実は事実、人生は人生でしかない。
「道化」をし過ぎたせいで、「自虐」を続けたせいで、本当の自分が分からなくなった者の悲しき定めは、あまりにも辛すぎる。

しかしその冷酷さを描くこと、いや、描いてくれたことに、わたしは『ジョーカー: フォリアドゥ』の存在価値を見出したいと思うわけだ。

言うなれば1作目『ジョーカー』は、完全なるおとぎ話、ファンタジー映画である。
対して2作目『ジョーカー:フォリアドゥ』は、救いようのない現実。フィクション映画史上最高のノンフィクションであると言えるだろう。


ゆえに、やはりこの作品を人に勧める気は正直起きないし、星評価をしてくださいと言われたら、せいぜい星2が妥当な結果だ。
もっともつまらない言い方をすれば、反面教師にするしかない映画、なのである。

しかしながら、今の時代にはこれくらい"分かり易く"悲惨で、"考えるまでもなく"悪いことをした人に対する罰、"誰にでも当てはまるような形"でわかる人の弱さを描く必要があるような気もしてしまう。

事実、前作からの大コケを受けて、道化と化した『ジョーカー:フォリアドゥ』の惨めさに満足(?)した人も多くいることだろう。
みんな、道化を欲しているだけなのだ。

『ジョーカー』から『ジョーカー:フォリアドゥ』までの5年間で、世の中は、あなたは、自分は、何が変わったと言えるだろうか。

劇中におけるそれは、何も変わらなかった、がひとつの答えであると思う。常に「悪」は成敗されながら、どこもかしこも「道化」を欲するだけの世界。ジョーカーの登場ごときで、ハーレイクインとの出逢いごときで、何かが劇的に変わる、なんてことはない。その中で、どう生きるか、どう死ぬか、それだけのこと。

たったそれだけのことを2時間半かけて描く完璧すぎる駄作が、『ジョーカー:フォリアドゥ』なのかもしれないと、わたしは思う。

しかし本作を否定すれば、それは「悪」を神格化することで、逆に本作を肯定すれば、「道化」として生きることを認めてしまうこの作り。

いろいろ考えても、まったく罪な作品が生まれたものだなぁと思う。


本作における世間の評価に異論を呈するつもりはない。

ただ前作同様、これを観た誰しもが、"何か"は思って欲しいし、"何か"は感じ得て欲しいと、そんなことを、わたしは思った。

本作を観ることは無駄かもしれないが、本作を観終えたあとに抱く感情には有益すぎるものがあると思う。

put on a happy face


(ちなみに3作目ができる可能性も十分あるなぁとは思いましたけど…それができた際には、いよいよ"アメコミ"だな、と思う気がします。別に本来それで構わない、というかむしろ、それを観たい気持ちもあるんですけど。笑)

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