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『すべての美しい馬』を読み想う荒野
人は美しいものを見て、その時に湧き上がってきた感情を美しい、の一言に凝縮しようとする。これは悪いことではなく、むしろ、良いことだと思っている。各々が美しいと感じたものというものは、自身の中で折り合いをつければいいだけで、己の中に秘匿しておくべきだろう。しかし、今は美しさについて書きたい。
コ―マック・マッカーシーの『すべての美しい馬』を読んだ。前回読んだ『ブラッド・メリディアン』が、血を煮詰めたような深く重い臭いがする内容であれば、『すべての美しい馬』は、涸れた大地を戦ぐ爽やかな風のような内容であった。抽象的でわからないと思うが、そのような印象があった。
前回でも話したがマッカーシーは、風景の描写がとてつもなく個性的だ。氏の描写する風景というのは、個人の感情が全く添えられていないし、客観的事実しか含まれていない。故に、これを味気ないものだと感じることもあるが、前後にある人物の言動・行動によって、客観的な風景たちが敵意を持っているのか、それとも祝福しているのか、その折によって風景の持つ印象が変化する。
とりわけ、『すべての美しい馬』は、その風景描写がとても素晴らしく、マッカーシーの持つ古き良き西部への憧れも、印象を揺さぶってくる要因の一つだろう。なにより、本作で扱われているテーマは友情と悲恋であるし、マッカーシーが得意とする暴力の描写が前面に出ていない(他と比べて十分すぎるぐらいある)のも、本作が織りなす美しさを享受しやすくする仕掛けとして働いている。
右でも述べたように、『すべての美しい馬』は友情と悲恋がテーマになっている。同郷の友人や道中出会う人物と友情を育み、身分の違う牧場主の娘と叶わぬ恋を果たす。と、物語は進んでいくのだが、本作が伝えたいことは、時代の移ろいだと思う。以下、本編より一節を引用する。
故郷を離れるというのは大変なことだともいった。また彼らは人がよその土地ではなくこれこれの土地に生まれたというのは決して偶然のことでないといい、その土地の気候や風土はそこで生まれた人間の内的な運命をも形づくるのでその運命は子から孫からその子へと伝えられたそうたやすく変わるものではないといった。
マッカーシーは、時折、作中の人物を使い自身の哲学を陳述する。右の引用もそれの一つであるし、『すべての美しい馬』を移ろいの作品であることを印象付ける一節である。
本作の時代設定は1949年。まわりを見渡せば、車がガンガン走っているし、ハイウェイでは猛スピードの車たちが走っている。その中で主人公たちは、前時代的な移動手段である馬を使い、メキシコに今は亡き西部という理想を目指し旅立つことになる。その姿はまさに時代錯誤であり、異質な存在であるが、右に述べた運命、主人公が生きる時代から逃れるために、時代遅れの馬にまたがる。
逃れる、という表現は適切でない。彼らは追い求めたのだ、自分が手にして違和感のない運命を、孤独を感じずに生きることができる時代を。その姿こそが『すべての美しい馬』の美しさであり、本作が持つ移ろいの正体ではないかなと、荒野を走る馬の姿を想像しながら考えている。
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