
【吉本隆明「共同幻想論」を読む】 「2,憑人論」 狐が人を化かすのは、なぜか? <ことばの森を逍遥する>
それまでは悪魔の仕業など超自然現象のようにしか考えられなかった精神病理の世界にたいして、はじめて科学性の光を当てたのはフロイトでしょう。フロイトは、人間の主体(自我)には内的な構造があって、そこには自分の意志ではコントロール不可能な部分があるとみなした最初の人ではないかと思えます。
図式的に単純化してしまうと、人間の精神の基底には、無意識という見えない大きな心的プールが存在していて、性欲動(リビドー)というエネルギーがその無意識を駆動しているということをはじめて理論化したわけです。無意識は、文字通り意識されないもの/できないものですから、自我によってはコントロールができないものとして想定されています。むしろ自我のほうが、自分では把握できない無意識によって翻弄されているとみなすのです。また他方で、自我は道徳(超自我)のような外部性によって拘束されてもいます。自我は、奔放な無意識と厳格な道徳に挟まれてダブルバインド状態にあるというわけです。とくにフロイトの時代のキリスト教圏の道徳観では、性は隠蔽すべきものでしたから、無意識的な性衝動は道徳(超自我)によって抑圧されるべき対象でした。道徳的に真面目な人であればあるほど、隠された性衝動と道徳の矛盾は大きく、自我は両者の板挟みになって折り合いがつけられなくなります。しかも真面目な人ほど、道徳の側を重んじて性衝動を否定する傾向も強いので、無意識の領域である「本来の自分」を否定することになってしまい、その矛盾や葛藤が病像となって現れることになる、そんなふうにフロイトは考えたのです。
「共同幻想論」の文脈でいえば、性欲動(リビドー)は「対幻想」の領域にあり、道徳(超自我)は「共同幻想」の領域にあるということになります。この両者が矛盾して相容れないことによって、精神病理が発生するとフロイトは考えたわけですが、吉本は「共同幻想論」を発想するにあたって、おおくのものをフロイトから受け取ったはずです。しかしフロイトが追究したのは、あくまで患者個人の精神病理現象を解明するということです。道徳(超自我)の領域は、既存のものとして前提されているにすぎません。そしてまた、性欲動(リビドー)については、あくまで生理的かつ個人的な領域の問題として捉えられていて、「対なる幻想」というような発想はありません。
『そして、わたしたちのいいうるすべてのことは、個体の精神病理学は、ただ男女の関係のような<性>の関係を媒介にするときだけ、他者の<二人称の>病理学に拡張されるということである。(たとえば、フロイトの正当性はこれをよく洞察していることにおいてのみ保証されるし、現存在分析における対象病理学への拡張の不当性はこれによって測られる)。そして、個体の精神病理学を共同の、あるいは集合の病理学に拡張するためには、個体の幻想性と共同の幻想性とは逆立するものだという契機が導入されなければならない。(これはいわゆるフロイト左派や社会心理学の不当性と限界を意味している)。』
ここでまた<逆立>というキーワードが登場してきます。フロイトおよびその流れをくむ精神病理の研究者たちは、この個と共同の<逆立>という問題を視野にいれていないというのです。もちろんフロイトの流れをくむ精神病理の研究者たちが、いわゆる社会理論に踏み込んでいないわけではありません。また、「共同幻想論」が書かれて以降に現れてきた、そのような成果もたくさんあることでしょう。ただ「共同幻想論」の描きだす世界観からいえば、精神病理学系の考察は、やはり個人幻想の内的構造を問題として主題化する傾向が強く、「対幻想」および「共同幻想」というような外化(疎外)された幻想として、つまり外的に存在する人間精神の構造というふうにみなす議論はすくないのではないでしょうか。
では吉本は、精神病理学が対象とする「個人幻想」の世界と、「対幻想」および「共同幻想」の世界とを、どのような手付きでつないでゆくのでしょうか。柳田国男の「遠野物語」のなかから、狭い村落社会で流布されている民潭を取りあげ、そこで村人が共通に信じているものを「共同幻想」として解析してゆく方法をとります。「遠野物語」には、現実と幻想の“あはひ”にあるような不思議な話が選りすぐられているわけですが、吉本はそれらの話のなかの超自然的現象とみなされる部分、つまり“不思議な体験”とみなされる部分はすべて本質的に精神病理的な「錯覚」であるとみなします。そして、柳田国男の個人的資質をも絡めながら、半醒半睡状態で見る夢のようなもの、入眠幻覚について問題にしていきます。柳田本人が「山の人生」で述懐している、幼少期の神隠し体験の話を引いて、つぎのように書いています。
『この挿話にあらわれたもうろう状態の行動はけっして<異常>でもなければ<病的>でもない。空想の世界に遊ぶことができる資質や、また少年期のある時期にたれもが体験できるものである。また、そういう資質や時期でなくても、日常の生活的な繰返しの世界とちがった異常な事件や疲労や衝撃に見舞われたときたれでもが体験できる心的な現象である。』
そもそも幼少期から不思議な空想に入り込みやすい傾向のあった柳田国男は、それだからこそ「遠野物語」に代表される“不思議な話”に自身が感応してその収集に没頭してゆくわけですし、それが民俗学へと傾倒してゆく理由でもあっただろうとみなしています。柳田国男は、急激に近代化していく時代に立ち会ったというだけでなく、じしんが“不思議な現象”に感応しやすい特異な資質をもっていたから、日本民俗学の始祖になったのだというわけです。ただ、そのように空想の世界にすっぽり入り込んでしまうようなことは、とくべつな資質の人や特別な時期に限ることではなく、多かれ少なかれだれにでもあることだといいます。ここは、この論考の入り口として、大事なポイントだと思います。
いわゆる不思議な体験のようなものについては、「感応しやすい人」と「感応しにくい人」というものがあるはずです。わたし個人は、そのようなものに対する感応性はまるでありません。なんらかの霊的なものを感じたり、あるいはUFOを見たり、といった経験はまったくありません。自分で感じたり見たりしたことがないので、そういうものはそもそも存在しないのだと、感覚的にそう思っています。けれども、そういうものを感じたり見たりした体験を語る人が、そうそう嘘をいっているとも思いません。人間というのは、“あらぬもの”を感じたり見たりする存在であると認識しています。
この世の中には、そういう「感応しやすい人」は、かなりの割合でいるはずだと考えています。そうでなければ、宗教など成立するはずがありませんし、もっといえば政治やスポーツや芸能などで熱狂するようなこともないはずだと思います。人間というのは本質的に、“あらぬもの”に感応する存在であり、幻覚あるいは空想のような世界とまったくかかわりなく存在することはできないと考えます。人間というものは本質的に、現実と幻想の“あはひ”に住んでいるものだということが、この「共同幻想論」の入り口であり、これを否定してしまう人には、この論考は無意味なたわごとにすぎないだろうと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『ここでは旅人の幻覚のなかで狐は人を<化かす>が、けっして人に<憑か>ない。<化かす>という概念は民俗譚のはんいにあるが、<憑く>という概念は不分明とはいえ個体と共同体の幻想性の分離の意識をふくむものである。そこでは巫覡的な人物が分離して個体と共同体の幻想を媒介する専門的な憑人となる。憑人は自分が精神病理学上の<異常>な個体であるとともに、自己の<異常>を自己統御することによって共同体の幻想へ架橋する。』
ある人がある時ある場所で不思議な体験をする、それはじっさいには、野山で疲れて眠っているときに見る幻覚もしくは夢のようなものであるかもしれません。ただ、狐が人を化かすという話がひろく流布しているようなところでは、その不思議な体験が狐の仕業だと認識されることは十分にありうることです。人間がいわゆる物理法則にそぐわない不思議な体験をすることは、精神病理学の知見からいってもまったく不思議なことではありません。ただ、それだけであれば、つまり不思議な体験をしたというだけであれば、それは個人的な体験の範囲を出ません。けれども、「狐が人を化かす」という「話」が多数の人に共有されているばあいには、その体験はまさにその「話」のとおりであったと認識されるにちがいありません。そのようにして多くの人が「同じ」体験をかさねてゆくにつれて、つまりもとは個人的な幻想にすぎなかったものが、多数の人がそれを共有することによってまさに“現実”として認識されてゆくわけで、まぎれもなく「共同幻想」が成立してゆくということがおこります。
狐が人を化かすという現象は、ある意味で、個人幻想と共同幻想の“あはひ”に現れるようなものです。体験としては個人的なものであり個人幻想の範疇ですけれども、それを「狐のせいだ」と認識し、その認識を他者と共有するということにおいては、それは共同幻想の範疇に入ります。
一方で、狐でもなんでも人に「憑く」というのは、それが特定の個人に憑くことを意味します。しかし、「憑く」というのは、本人がそれを自覚的に認識するということではなく、周囲の人たちがあの人には狐が憑いていると外部から認識することを指します。これは、たまたま誰かが幻覚を見て「狐に化かされた」と思い込むというのとは次元がちがいます。「憑く」という現象は、まさに共同体の共同意識そのものとして成立するものだといえます。
憑かれる対象としての個人は、精神病理的なある種の性質、憑かれやすいような感応性をもっているかもしれません。しかしそれ以上に、その対象となる個人は、共同体から「それ」と名指されている人でなければならないというのが基本条件です。この構造のうちに、個人幻想から共同幻想へと至る端緒が見いだせると吉本は考えるわけです。
幻覚を見るというのは、精神病理的に解明可能な個人的資質です。存在しないものが見えたり神の声が聞こえたりすることは、ある種の精神病理的資質をもった人間の生理的な特性として、とくに不思議なことでもなんでもありません。けれども、それだけだったら、個人的な異様な体験というだけで、それが共同性へと仮構されるまでには至りません。
では個人的な幻覚体験のようなものが、多数の人間に共有される可能性があるとしたら、それはいったいどういうところに契機があるのだろうかと考えざるをえません。吉本は、これを考えるヒントして、「遠野物語」からいくつかの例を引いて、村落に特有の狭い人間関係が生みだすだろう幻覚体験を問題にしています。「妹が息子に殺される叫び声を、離れたところに暮らす兄が同時刻に聞いた」とか「ザシキワラシが富裕な家から出てゆくのに出会い、その後その家が没落した」とか「瀕死であるはずの老人が、自分で歩いて菩提寺へ行くのに出会った」とか、そういう話にたいしてつぎのように述べています。
『いずれもごくふつうの村民の入眠幻覚にすぎない。ここで一様にあらわれるのは、狭くそして強い村落共同体の内部における関係意識の問題である。共同性の意識といいかえてもよい。村落の内部に起こっている事情は、嫁と姑のいさかいから、他人の家のかまどの奥の問題まで村民にとっては自己を知るように知られている。そういうところでは、個々の村民の幻想は共同性としてしか疎外されない。個々の幻想は共同性の幻想に<憑く>のである。』
現在のような都市生活では、なかなか考えにくいことですが、狭い村落生活においては、村中の人が相互に他人の暮らしの事情や人間関係などを知悉しているために、幻覚のように見たり聞いたりしたことが現実と一致したからといって何の不思議もないと吉本はいいます。ある人が、瀕死の重病人の霊に道で出遭うのは、その重病人が今日は死ぬだろうことを彼がよく知っているからだし、またある人が、殺された人の叫び声を遠くで聞くのは、そろそろ殺されてもしかたないだろうことを彼がよく知っているからだというのです。相互の距離がとても近くて、それぞれ他者の生活事情を知悉しているような狭い村落社会では、周囲の事情とは無関係な孤立した個人幻想はむしろ成立しにくいわけで、あらゆることが共同性のなかに包み込まれてしまうのだろうと、そう考えているようです。
そもそも個人という概念がいまのように明瞭になってくるのは、文明化された時代になってからのことですから、人間の意識というものは、もともと共同性に埋もれていたと考えるのが妥当だと思われます。時代が下るにしたがって、その共同性の意識が徐々に分離・分化され、しだいに個人にとって自覚的なものとなってゆき、個別的主体のようなものが析出されてゆく、そういうイメージをもてばよいのではないでしょうか。
そういうイメージをもつとするならば、ある意味では、「共同幻想」は「個人幻想」に先行してあるということもできるだろうと思います。個人という概念が不分明な状態で、「共同」という言い方は適切ではありませんが、意識あるいは精神と呼ばれるものの起源は、まずバラバラの個人に宿ったというより、集団のものとして発生したと考えるべきものといえます。前古代的あるいは原始的なところへ、できるだけとおく想像を遡らせて、まだまだ未分化な状態の宗教性(自然への畏怖・崇拝)のようなものを考えてみようとすると、そこに個人意識というようなものが登場してくるとはあまり思われません。
もちろん、歴史時代以前のことについて文献資料などは残っていませんので、どこまでいっても想像の範囲を出ませんし、確定的なことは何もいえませんけれども、できるだけ理に適った想像を構築するほかに方途はないとしかいいようがありません。吉本が共同幻想の問題を考えるにあたって、まず「遠野物語」の民潭を分析的に取り上げたのは、幻想としての人間における個人性がいまだ共同性に溶け込んでいた時代の痕跡をそこに見出したからだろうと思われます。
※太字の『 』内は、吉本隆明「共同幻想論」(河出書房版)よりの引用です。