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発達支援コラム 自己受容・自己肯定感シリーズ 『こどもにアセスメント。小学生と中学生との大きな違い?』

#1 こどもにアセスメント

アセスメント。

簡単にいうと

本人の希望

「こうだったらいいのにな♪」の

聞きとり(傾聴)です。


その後、どうやって希望を叶えていくかを

一緒に考えていきますが

幼い頃は、親御さん、ご家族さんのお話が

中心になります。

うまく言えないことも多いので。


中学生以降になると、

個別支援計画の

「本人のニーズ」の欄は

自分の思いで埋めてあげたい。

そのまんまを書き起こして

その場で確認してもらうようにしています。

「これでいける?」

「言いたいこと合ってる?」

みたいな感じです。


「どんな大人になりたい?」

「どんなことができるようになったら嬉しい?」

と、願いを叶えられはしないのにも関わらず

聞いてくる「ドラえもん」みたいな感覚に

よくなります。

ポケット持っていないドラえもん(ワタシ)は

せめて手立てを一緒に考えて

友情だけは育んでいきたい。


「最近何してる時が一番楽しいん?」

など会話から始めます。

子ども自身が楽しくて乗ってくると

結構本音が出てきたり

エピソードトークしてくれたりします。

ただし、この年齢は

親御さんがいないところに限る。笑


#2 小学生と中学生以降の大きな違い

キッズ・トーンに来てくれている

子どもたちは長年に渡り

継続的に関わらせていただいているので

子どもたちの成長過程を見させてもらえています。

体だけでなく心の成長も感じます。

小学生の時の「こうだったらいいな」と

中学生以降の「こうだったらいいな」では

本当に大きな違いが出てきます。

今日はそんなお話を書こうと思います。


小学生の時は


「○○の曲で遊びたい」

「ごほうびの時間でやった〇〇がもっとしたい」

「もっとドラムしたい」


といった経験から楽しかったことを

「もっとやりたい、遊びたい」という

「自身」の楽しさ追求、

欲求的なニーズ

が多いのに対して


中学生以降になると

「他者」が含まれるニーズ

変わってくることが多くなってきます。

子ども本人が抱える問題を

「自分の問題点」と感じることも増えてきます。

そんな時、

「自他区別ができ始めているなぁ」

なんて思います。


「もっと人とうまく話せるようになりたい。」

「もっとみんなと同じようにできるようになりたい。」

「もっとみんなみたいにわかるようになりたい。」

「もっと〇〇の期待に答えられるようになりたい。」

「みんなはすごいねん。」(あなたもすごいけど!)


そこには「もっと」の言葉と同時に

「自己肯定の低さ」が混ざっています。

この「もっと」の切なさ。

伝わるでしょうか。


この時

素直に気持ちを吐き出せたり、

周囲の期待に応えたいなどの優しさを見ると

「この子は中身が素晴らしい人のまんまに育っているなぁ。」

と感じると同時に、

とても苦しくもなります。

複雑なきもち。

きっと想像できない色々な経験をしたんだろうか。


#3 自己肯定感からの「もっと」の違い

「もっと」は「もっと」でも、

自分のスキルアップや自分が嬉しい

「もっと」は、

良い「もっと」です。

比べる相手が自分自身だったり、

目標とする人に近づきたい向上の「もっと」は

自己肯定感が高い方の「もっと」です。

基準が自分軸です。

「努力のもっと」


けれど、

人と同じようにできないから「もっと」

が見え隠れ。

他人軸のもっと。

基準が自分じゃなく「誰か」「何か」

「頑張りのもっと」


さて、この辺りで

「ん?」と何かお気づきになられた方も

いらっしゃると思います。

「だんだん自己肯定感って低くなってくるのでしょうか?」


この小学生と中学生の違いはひとつ大きな違いがあります。

自己受容・自己肯定感が下がるというより

「次のステージが始まった」

そんな感覚に近いと思います。


小学生の時代の「こうだったらいいな」が

「自身」の楽しさ追求、欲求的なニーズが多い。

それはまだ

他が見えていない、はっきり他者認識が

「まだ出来ていない段階」という方がしっくりきます。

天真爛漫な無邪気なこどもというイメージです。

まだ他者との境界線が薄い。

世界がじぶん。

相手の立場になって考えなさいで

答えられるのは、

いつか大人が言った

「模範解答で答えているだけ」


例えば、

お友達に「バカ、キライ」って言っちゃったとします。

「バカ、キライ」って言われたらどんな気持ち?

と大人に諭されます。

「嫌な気持ち」と答えたとします。

「だよね。わかってるんだったら言ったらいけないよ。」

一見わかったっぽい。

言葉でわかった風に応えるのは

模範解答なわけです。

そもそも大人レベルで理解していて

人を叩いたりするでしょうか。

「僕が叩いたら、〇〇くんは、痛いよね。

悲しいよね。だから叩かないよ。」


こんなこども怖すぎる。

こどもはもっと感情・衝動的でいい。

テンションコントロールだって

感情コントロールだって

やってやられて痛みを伴って

やっちゃいけないって体験していくもんだと思います。

血の通った経験ってすごく大切。


逆に、大人の演技をしている、

大人から見て都合のいい子どもは

歪みが見える。

よっぽど、心の闇があるように感じます。

ずーっと大変厄介なわけです。

溶かしかたなんてわかりません。


きっと原因はひとつ。

「ボク・ワタシ、この人に信じられていない」

これだと思います。


ですが、やっちゃダメなことをどう理解してもらうか。

相手の気持ちを「お母さんだったら?」に

変換することをお勧めしています。

例えば私が、

「バカ、キライ」って大好きなお母さんに言って

叩いたらどうする?

とこどもに伝えます。

「ヤバイ、大好きなお母さんが攻撃される!」

「ダメ!!!」

じゃ、ダメなんです。ちゃんとこどもは知ってる。

そっちの方が言っちゃダメな言葉として

よっぽど「ピン」ときます。


言葉に惑わされたらダメなことって

案外たくさんあります。


さて、話は戻り、中学生以降のこどもたち。

中学生以降といえばちょうど思春期。

様々な葛藤が生まれるのは

この他者認識が出来始める

「他人と比べる」

が始まるからかもしれません。

「比べる」ことが苦しい始まり。


そして、子ども時代より他者認識しだしてから、

そこからの人生の方が圧倒的に長い。

他人を含めた上で、どういう思考で

自分は生きていくのかが

生きやすいか、生きづらいかの「差」に

なってきます。


先ほどの、中学生以降の子どもたちとの

会話に出てくる「もっと」は

自己否定の意味合いが強い「もっと」

「今のままのボク・ワタシはダメなんだ」

の裏返し。

誰かと、何かを比べての

「もっと」は自己否定のもっとです。


人と比べて劣っていると感じているからの

「もっと(頑張らないと)」

誰かの期待に応えられていない苦しさの

「もっと(頑張らないと)」 

ほど苦しいものはないですね。

どうしても生きづらさが出てきます。

だから自分を「許す」「許可する」が

必要不可欠になります。


#5 許していく。

他者認識が出来はじめ

苦しくなった時。

自分と他者のと違い、

周りが見えるようになって

自己否定が強くなった時。

そこからが

自分を許していく本当の始まりです。

「まぁいっか」

「そんな自分も許しちゃおう。」

「〇〇することを許可します。」

どんどん許して心を軽くしていくことが必要です。


ここで大変なのは、

シングルフォーカス強めの、

ハイコントラスト強めさん

(0・100思考と言われる人です。

勝負に負けたら暴れん坊になるタイプも多い。)

は、特に苦しいと思います。

ちょっとの失敗が絶望的な失敗に感じてしまう

「振り切っちゃうメーター」

持っている。

それがダメなわけじゃありません。

一番苦しんでいるのは本人ですから。

「自分を許す」ことが自己受容の始まりです。

自己肯定感はまだずっとその先の話なので、

まずは「自分を許す」ことから。

「自分は自分でよかった!」と

思える大人に育ってほしいと思います。

自己否定の「もっと」は

そろそろ大人が始まるよ〜♪

実は喜ばしい合図なのかもしれませんね。


この話をすると、サムライの頃は

元服って13歳でしたっけ。

自立の年齢。

他者区別がつく頃。

昔の人はかしこいよなぁと思う次第であります。




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