泣き笑いの東京駅
物心ついた頃から東京暮らしが憧れだった。
テレビで見るたびに、旅行で訪れるたびに、輝きが増す街。日本のすべてが集まる、この国の中心。
いつかここで生きていく。
あの日の誓いを果たすときがきた。
知らなかった。
毎月、家賃だけでは家を借りることができなくて、共益費というやつも必要だということ。毎月の家賃だけでもなくて、住みはじめるために初期費用で敷金礼金家賃1ヶ月分が必要で、それだけでもダメで鍵交換台とか火災保険とかも合わせて40万近く必要なこともあるということ。会社からの支援金の20万なんて残らないということ。1K, 洋室8帖 の家の家賃が東京では8万円(+共益費12000円)、それ以上のこともある一方で、地元では+1万円(共益費は3000円)で3LDKに住めるということ。8帖の洋室ではベッドはシングルしか置けなくて、ソファ、テレビ台、本棚、ローテーブルを置いたら、ほとんど隙間なんてなくて、デスクなんて置けないということ。池袋はなんでもあって便利だということ。今注文しようとしているベッドは組み立て付だと2週間後にしか来ないということ。
生きていくのにこんなにお金が必要なのだということ。
ひとりはこんなに寂しいのだということ。
卒業すること、東京でひとり暮らしすること、新社会人になることへの実感がないと語ったけれど、それはきっと気づきたくなくて、私の頭がわからないふりをしていただけなのだと思う。
私はなんにも知らなかった。
月曜日、半年ぶりに幼馴染に会った。近況報告をしつつ、もう社会人かぁ、なんてふたりでしんみりとした。
水曜日、卒業式があった。式に参加して、たくさん写真を撮って、遅れてパーティに出席して、ゼミの飲み会へ行った。
その次の日、これからは会おうとしないとみんなに会えないのか、と突然寂しさが襲ってきて、心にぽっかりと穴が空いた気がした。
そして金曜日、引っ越し前夜、仕事終わりの幼馴染が家に来て、餞別の品をくれた。白陶器のマグカップとドリップコーヒーのセットだった。
「(私のあだ名)はいつか東京に行くんだろうなって昔から思ってたけど、いざそうなるとなんか寂しいな。」
少し涙ぐみながら、そうだね、なんて話した。
「やっぱり一度は地元を離れてみるべきよ。離れてみないとわからないことって、あるから。」と、言っていたバイト先のスイミングスクールで毎週のようにおしゃべりしていた受付の奥様を思い出す。
地元愛の強い人が多いあの街で、生まれ育った土地に対する嫌悪感も愛もなく、地元への嫌悪感からでもなく東京とかパリとかに出てみたいとずっと思ってきた。そして一度出たら、帰省や里帰り出産のときくらいしか帰ることはなくて、ずっと東京で生きていくのだろうと思ってきたけれど、今は。
ねえ、ほんとうに私は東京に出ないとダメだったのかな。
初任給が入るのは5月で、それまでの1ヶ月ちょっと、一番お金がかかる時期にお金なんてないのに、家具とか家電とか生活用品とかひと通り揃えなくちゃいけなくて、それを全部父に背負ってもらってまで、ここに来なきゃいけなかった理由って何なんだろう。
地元なら同じ値段で納得のいくもっと広い部屋に住めるのに、これっぽっちの家にしか住めない土地で暮らす必要性って何なんだろう。
せっかくできた大切な友人たちと、卒業後の進路はどっちみち違うとはいえ、「久々に会社帰り飲みに行かん?」と誘うこともできない距離に離れて、彼と遠距離になって、ほとんど知っている人がいない寂しさって経験しないとダメなのかな。
土曜日、引っ越しをした。
土日月と新しい家で母とふたりで暮らして、駅近くのイオンと池袋を毎日ハシゴして、生活用品を一式揃えた。
月曜日、ディズニーに行っていた父と妹と合流して、最後の晩餐を迎えた。月曜定休のお店が多くて、店選びは難しかったけれど、東京駅付近のカジュアルフレンチへ行った。フレンチなだけあって、店内は絵や昔のポスターがたくさん飾ってあって、フランス語で「ビストロからの美しいお土産」なんて書いてあったりするような、パリを思い出させる内装で、懐かしくて、これから悲しくて、寂しくて、デザートを食べていると涙が溢れた。
「ちょっと不安になっちゃったか」という声にふと顔を上げると、母が泣いていた。母は、少し前に行ったばかりなのに再びお手洗いに行った。その間、私の横で父がずっと「大丈夫だ。何も知らないパリで1ヶ月、立派にひとりで暮らせてたんだから。あれ見てパパ、安心したんだからな。」「パパも研修で関東行ったとき、1週目の週末にすぐ(関西に)帰ってきた。いつでも帰っといで。仕事終わって、洗濯物だけ持って、金曜夜にすぐ新幹線乗って、日曜夜に新幹線で帰ればいい。」「戸締りとガスだけしっかりするんやで。あと個人情報は絶対人にしゃべっちゃダメだ。タクシーに乗るときも、住所は言わずに近くの建物言えばいいんだからな。」なんて同じことをずっと繰り返していた。
過保護さから生まれる行動の制限や、長期休みに必ず家族旅行に行こうとするせいで友達と遊べないことを鬱陶しく思ったこともあった。素直に「ありがとう」や「ごめんなさい」を伝えられないことも多かった。それでも、連絡をちゃんと入れたり、文句を言いながらも門限を守ったり、社会人になったら行きにくくなるからと家族旅行に参加したり、してきて良かった。たくさん心配や迷惑はかけたけど、幼稚園と中学と大学は私立で、パリに留学して、お金もたくさんかかったと思うけど、父と母に反抗期を経験させずに生きてきて、よかった。私みたいな人間は、大きな「ごめん」を持っていたり、「ごめん」がたくさん降り積もっていたりすると、いつか永遠の別れが来るときに絶対に後悔するから。今みたいな新幹線で数時間の距離の別れでもきっと後悔したから。後悔が小さく、少ないものたちで、これから気をつけられることで、よかった。
この家に生まれて、よかった。
もうここでいい、という家族を制して、東京駅まで行った。
私が一目惚れした皇居へと繋がる綺麗な道が改装中の東京駅の前で、全員、目と鼻を赤くし、目が潤んでいる家族写真を撮った。東京駅単体の写真は、カメラがなくてiPhoneの画質だから写真としてはイマイチだけど、消さない。
JR改札の前で、堪えきれずに声をあげて泣きながら「元気でおるんやで」と言う母が、涙が滲む父が、何とも言えない表情をしている妹が、何度もこちらを振り返って手を振りながら改札の向こう側に消えていくのを見送った。涙が止まらない、けれどもしっかりと口角の上がった、泣き笑いの表情で。
帰り道、丸の内線のメトロの中で、Spotifyを開いて、ミスチルを流した。GReeeeN の 遥か は、聴けなかった。
今までそんなにちゃんと聞いたことがなかった気がする Everything の歌詞が、ひとつひとつ心に響いて、何度も何度も繰り返し再生して、静かに涙を流した。だけど心は、どんよりとしておらず、軽やかだった。それはやっぱり、東京だからだろう。
最寄駅に着いた。
妹から「上京してこの街にしか住めないのは嫌だから、それなら関西にいる。」「東京に住むなら、もっと東京らしいところがいい」と言われたほど、東京なのに東京らしくないこの街を、幼き頃の私に見せたら、きっと同じことを言うだろう。東京だから、ときちんとメイクをして丸の内とか渋谷とかにいる人が着てそうな服を着て外へ出たら浮いてしまう。
この街の人たちは、今にも脱げそうなサンダルに、部屋着で、ノーメイクで、「ちょっとイオンに買い出しに」行く。そのイオンにはたくさんの赤ちゃんがいる。
7:00に開いて、16:00に閉まる団子屋さんがある。
近所の公園では、雨が降っていなければ子どもたちが遊んでいる。
信号があってないようなものである道が続く。
昭和っぽい雰囲気の漂うこの街は、どこか懐かしくて憎めない、安心感のある街だ。東京のどこに住むの?と聞かれたときに「(最寄駅)っていう、どこ行くにも1時間かかるとこ」と少しディスり交じりに答えるけれど、私はこの街が嫌いじゃない、むしろ好きだと思う。ひとりが怖くも寂しくもなかったパリとちがって、ひとりが怖く寂しい東京だけど、帰る場所はこの街だから、ちゃんと毎日帰ってくるだろう。
私の家に着いた。
セミダブルにするか、シングルにするか、シングルでもどれにするか、迷っていたせいで、まだこの部屋にはベッドすらない。ローテーブルが着くのは水曜日だし、ソファとテレビ台はまだ注文していない。デスクはやっぱり置けなかったから、ローテーブルを昇降式にしてよかった。
関西とちがって10チャンネルが映らないテレビをつけると、妹の推しである菊池風磨がレギュラー出演している「何か"オモシロいコト"ないの?」が放送されていた。家族LINEや、父とのトークルーム、母とのトークルームに返信したり、新たなメッセージを送ったりしつつ、彼に電話をかけた。君がいて、よかったと思った。
母と歩いた道を、父と妹と歩いた道を、
これからはひとりで歩いてく。
今はとても寂しいけれど、
きっと大丈夫になっていくと知っている。
元々ひとりが別に苦ではないし、コンテンツ力だけはある東京なのだから、楽しくないはずがないのだ。
そんな今日も、きっといつか過去に、思い出になる。パリのように、この街もきっと私の第二、第三の、ふるさとになる。
出社=出張でどこに住んでもどこから通勤してもいい、なんていう制度が平社員には大嘘だったこの会社に依存しなくても生きていけるように、いつでも辞めて関西に帰って生活していけるように、いつでもパリに行けるように、やっぱり副業をはじめよう、と思う。
それでも、今は。