【小説】脚の短いガードレールに花束を、夏。
「そんなに悪いものじゃないな」
俺は夜空を見上げながら言った。
「素直に言えよ」
「あぁ、嫌いじゃない」
四角いと思っていた空は広く、名前の知らない星がいくつも光っていた。
「あの星はなんていうんだ」
「どれだよ」
「あれだ」
「指をさされてもわかんねぇよ」
「そうだな」
「まぁ、名前なんていいんじゃねぇか」
「そうだな」
***
夏が嫌いだ。
照り付ける太陽も癪に障るし浮かれた子供たちがはしゃいでいるのも鬱陶しい。外で吸う煙草も不味い。缶コーヒーは麦茶の様な味がする。そうだ、俺は麦茶も好きじゃない。ガキの頃は家に帰ると飲むものが麦茶しかないから、俺はこっそり牛乳で割って砂糖を混ぜていた。見た目はともかく味だけはカフェオレの様になる。
とにかく夏が嫌いだ。
海にも行きたくないし、山なんて願い下げだ。海は浜辺や海岸を歩きなれていない無様な都会歩きで醜態を晒す事になるし、あの界隈は異文化過ぎてどうにも馴染める気がしない。海に集う人間の半数が都会から来た人間だとしても、やはり俺は余所者である意識が強すぎるし現地の人間はそれを見透かすような目をしている。山にしたってそうだ。
俺は都会者である事が恥ずかしい。
都会者は何も出来ない。海でろくに泳げもしないし、浜辺だってまっすぐに歩けない。座り方も知らないし、当然のように立ち上がり方も知らない。全ての動作が無様で醜い。それが恥ずかしいのだ。その醜態が日の本に晒されるのが恥ずかしい。
逆に言えば彼らも都会での歩き方を知らないだろうし、そういう田舎者が4月の駅で人にぶつかられて戸惑う姿を何度も見てきたし電車にだってまともに乗れないのだ。恥ずかしさに打ちのめされた人間は5月初旬で姿を消す。馴れたり恥を感じない傲慢な人間が都会に居座って残っていく。そうして彼らも砂浜の歩き方を忘れていくのだ。
***
「知りたいか、名前」
「どれがアルタイルなのかもわからない」
「そっちじゃない」
「名前を知ったところで何もわかりゃしないだろ」
「そうだけどさ」
「煙草吸うか」
「欲しい」
俺は胸ポケットから煙草を取り出して落とさないように渡した。
「火、くれ」
「待ってろ」
手を伸ばして火のついた100円ライターを差し出すと、首を伸ばしてどうにか火をつけた。丸みを帯びた夜風に煽られて二筋の煙が絡まっていった。
「ナメクジの交尾みたいだな」
「それはどうなんだよ」
「官能的な表現のつもりだったんだけどな」
「詩的センスは無いんじゃないか」
「それなら黙ってるのが一番いい」
「あぁ、少し静かにしていよう」
そうして俺たちは黙って空を見ながら煙草を吸っていた。
***
都会でも海辺でも喉は乾く。
交通系ICカードの残高が足りずに、結局は財布を出して現金を使う事になった。ICカードを自動チャージにすれば良いだけの話だが、今まで3回も落とした事を考えるとクレジット機能を付ける気にはなれない。都会者にしたって間の抜けた奴だと我ながら思う。
千円札は2回ほど跳ね返されて、その後ようやく飲み込まれていった。自動販売機は昔より精度が悪くなった気がするけれど気のせいだろうか。
とにもかくにも千円札を飲み込んだ自販機のボタンを押して缶コーヒーを取り出す。やたら多い小銭の音が響く。確かめてみると8枚の100円玉と8枚の10円玉だった。うんざりした気持ちになる。できるだけ小銭は少ない方が良いと言うのにこの仕打ちは何だ。俺が何かしたと言うのだろうか。
そもそも昨日だってひどい目に合った。酷い通り雨を凌いで入ったマンガ喫茶で、レジにいた若い女は865円の会計に対して1015円を出した俺の意図が汲み取れず、半ばパニックになった挙句そばにいた同僚と目を併せて笑い始めたのだ。
思い出すだけでも腹が立つ。
その少し前には路上で生活支援雑誌を売っている男に「これで冷たいものでも買ってのみなよ」と小銭を渡すと小声でなにやらぶつぶつと文句を垂れていた。俺はお前が売っている雑誌の母体がどんな思想の団体であろうと構わないし、お前が俺の数百円で生活を一気に向上させられるとも思っていないからこそ、この暑い中を頑張っている人間に俺が出来る事をしただけなのに何を文句まで言われなければならないのだ。施しじゃあないし憐憫でもない。その瞬間に俺が出来る事はそれだけしか無かったのだ。
お前を家に上げてシャワーを浴びさせてやるとかメシを喰わせてやるとかスーツを貸してやって就職の世話をするとか、それが出来ないかと言えば一度は出来るだろう。だが持続性の無い救いは結局のところ煉獄でしかない。ひとりで掴んで途切れる蜘蛛の糸など垂れる奴はいるまい。
***
「いつから?」
「さぁな」
「言えよ、今さら照れてんのか。暗くて顔も見えねぇのに」
「だからだよ」
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