パンチドランカーハンバーガー
耐え難い空腹に襲われて俺は起き上がった。
眠れない。舌打ちをして深呼吸をする。脂汗で背中に張り付いたシーツを剥がしてベッドを這い出る。暗いリビングを横切って冷蔵庫を開ける。冷蔵庫のドアを開けた中にあるのは豆腐とヨーグルト、ゆで卵、蒸し鶏、そして四倍に希釈したスポーツドリンク。暗いリビングを照らす冷蔵庫の虚しい明かりが空腹の影をより濃くする。冷蔵庫の唸り声に紛れてため息を吐く。ブゥゥゥゥゥン。アパートの廊下に下がる蛍光灯が点滅する。
コップに注いだ薄いスポーツドリンクをひとくち飲む。換気扇を回して煙草に火をつける。そうやって空腹をやり過ごす。眠れない。だが眠るための酒は飲めない。酒は体脂肪の燃焼を阻害する。煙は換気扇に吸い込まれていく。揺れる煙を眺めながら俺は独り言ちる。笑えるだろ?飽食の現代社会でメシを食わず酒を飲まず、一体おれは何のために生きているんだ?何度もした自問に自答が出来ない。それに答えたところで腹は膨れない。考えれば余計に腹が減る。灰皿に押し付けた吸い殻さえ食えるものなら食いたい気分だった。床に転がったグローブを蹴り飛ばす。乾いた音が空の胃袋にまで響く。
どうせ眠れない。俺は寝間着からスウェットに着替えてスニーカーを履いた。ランニングは良い。走るだけなら無料でだれにでもできる。点滅するアパートの蛍光灯をくぐり、音を立てないように錆びた階段を下りる。軽く屈伸をしてから走り出す。不愉快な湿度はまるで影を縫い付けるような重さを伴う。吸う息も吐く息も重たい。血が巡る気配を感じない。それでも走るしかない。疲れれば眠れるかも知れない。余計に眠れなくなる可能性は考えない。
我慢。
我慢と言う行為は秩序の中でしか発生しないし評価もされない。趣味で始めた格闘技の所為で俺は我慢を強いられている。いや、自分自身に我慢を強いている。俺は試合に出る気なんて無かった。だが格闘技ジムの会長に勧められて記念に一度くらい出てもいいかなと思ってしまった。
それが間違いだった。会長が痩せろと言う。なぜなら格闘技はリーチの差を競うゲームだからだ。射程が長い方が圧倒的に有利な世界。パンチの重さは二の次。そうやってヘヴィー級以外の奴らは勝つ為に痩せる。勝つ為に弱くなる。秩序の中で戦って秩序の中で勝つ為に秩序の無いケンカに弱くなる。
半年前の俺が笑う。今のお前じゃ俺に勝てない。馬鹿馬鹿しい。その通りだ。人生は無差別級だと言うのに俺は痩せ細って弱くなっていく。しかもアマチュア格闘技だ。例え試合に勝ったところで得るのは満足感だけ。結局は記念だ。その為に痩せる。弱くなる。
減量。
痩せるのは簡単だ。消費カロリーに対して摂取するカロリーが下回ればいい。食べる事を耐えれば済むだけの話だ。1㎏痩せるのに必要なのは7000kcalの負債。基礎代謝が1450kcaとして起きて仕事をして寝るまでに消費するのが合計2000kcalとすれば、1日あたりの食事を1000kcal程度に抑えれば1週間で1㎏くらいは痩せられる。そして計算すればいい、俺が何を食えるかを。俺が何を飲めるかを。
コンビニのメシには全てが書いてある。カロリー、脂質、糖質、タンパク質。1日に1000kcalなら1食330kcalだ。糖質も脂質も低ければ低い方が良い。タンパク質は高い方がいい。週に1度だけチートデイを設けて肉体の省エネモードを防ぐ。立ち食いそばのチェーン店で食う紅生姜天の旨さに泣いた事があるか?俺はある。午前5時のそば屋でその旨さに泣いた。脂質も糖質も狂うほどに旨かった。思い出すだけで腹が減って苛立ちが募る。
そして今、俺は軽いジョギングを終えて入った深夜のコンビニで立ち尽くしている。掴みかけた菓子パンを棚に戻したところだ。そうだ、その味を俺は知っている。分かりきった菓子パンの味。新発売のシールは嘘つきの烙印だ。知っている味の組み合わせで成立しているすでに知っている味。だから食べる必要が無いし、だからパンを棚に戻した。
コンビニのメシは旨い。旨いのは当たり前だ。その道のプロが金と手間暇をかけて生み出した味だからだ。だがそこには制約がある。商品の金額だ。青天井には出来ない。結局はどれも似たような味になる。Aの味とBの味を足してもCの味にはならない。Aの味とBの味がするCと言う商品がそこにある。そして同じような車輪が繰り返し回される。
だいたい新発売と謳うそれを俺は去年だって一昨年だって見た。だが誰もそんな野暮な事は言わない。気が立っている証拠だ。そんな事を考えながらずっと立ち尽くしている。最近のコンビニは夜中であろうとレジに店員が立たない。だから俺は遠慮なくパンを掴んだり棚に戻したりできる。
衝動的に手に取った商品を戻してカゴの中を空にする。戻される商品。巻き戻し。逆に歩く巡礼。願い。瘦せ細る身体。力が入らない。そうだ、俺は順調に痩せている。体脂肪は半減した。体重は10㎏以上落ちた。椅子から立ち上がれば眩暈がするし、歩く速度は老人並みになった。階段を昇るのが辛い。なんで俺は階段を使う部屋なんかに住んだ?ウンザリする毎日。全てを投げ出してしまいたい。食って飲んで全てを台無しにしたい。だが俺にはそれを決める体力すら残っていない。吐き戻すだけの気合も残って無い。食う以前の問題だ。
友人や同僚に食事を誘われても「俺は食わないが構わないか?」と聞く。カレーだのオムライスだのと食う人間がホウレンソウのソテーを水で流し込む人間と一緒に机を囲んで楽しいのか分からないが。それでもたまにはメシに誘われる。厭味か?珍獣観察の類かも知れないな。あんたはどっちだ?どっちでも構わない。試合が終わったら何か食いに行こう。俺が食えるかを確認してくれ。
そうだ。一度「もし俺があんたと一緒にメシを食いに出て、皿の上の肉を小さく切り刻んで並べたりしたら殴り飛ばして椅子に縛りつけてでも食わせてくれ」と冗談を言ったが笑ってくれなかった。俺には吐くまで食ったり食った後に異常な量の運動をする気合も根性も無いが万が一の話だ。とは言え食う事に怯えが出つつあるのも事実で、チートデイだって気楽に過ごせない。まぁこれを誰かが読むことには俺がどうなっているか分かったものじゃない。すでに狂ってるんだ。缶コーヒーを一本飲めば1kgも太った気分になる。濃い色のションベンは少ししか出ない。クソなんざ出ない日だってある。
浅く曖昧な眠りから覚める。いつ眠りに落ちたのか。そもそも眠れていたのかも分からない。勢いのないぬるいシャワーで不愉快な脂汗を流す。どうにか立っている。重い腕を挙げる。髪の毛がつかめない。手の先にヘッドギア。その手に着けたグローブ。ここはジムか?俺はスパークリングの最中に寝ていたのか?蹴られた脚が痛む。左手を出す。ジャブは届かない。右手を出す。ストレートは空を切る。コンマ数秒の覚悟。歯を食いしばる余裕もない。俺の顔面に叩き込まれるカウンター。衝撃。意識に空白が生まれる。俺はシャワーの下で立ち尽くしている。泡が渦になって排水溝へ流れ込む。詰まりかけて呼吸困難になっている。ダウンしたい。膝をつきたい。ボディーブロー。衝撃の3秒後に出る感想。立ち続ける意地。動かない足。続けて叩き込まれる。汗が落ちていくのが見える。浴び続ける。呼吸ができない。眠りたい。食いたい。ハンバーガー屋に入る。ハンバーガーを注文する。ご一緒にポテトは如何ですか?いや、ハンバーガーを単品で頼む。飲み物は水でいい。
目を覚ます。俺はそのハンバーガーの味を知らない。