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美しい嘘。貴族の末裔であると偽る三島由紀夫『花ざかりの森』

三島由紀夫は17歳で上梓した典雅な小説『花ざかりの森』によって、三島を知る文学者たちの界隈で神童と称されるようになる。冒頭を引用しましょう、「この土地へきてからというもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいような、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。」これ、プルースト文体でしょ。なお、『失われた時を求めて』の初訳(部分訳)は1931年にはじまってるんですね。この小説『花ざかりの森』は文体が雅であり、とうてい17歳の少年のもとはおもえない優れた達成であることは一目瞭然である。ただし、この小説にはいったいなにが書かれているかしらん? このことの考察抜きに、三島由紀夫を語ることはできない。



この小説の主題、それは小説執筆時の戦時下において、日本精神を誇り高く維持するためには、平安朝まで遡った貴族的な価値観の復古が必要だ、という保田與重郎以下日本浪漫派の主張に(いっけん)沿ったものである。なお、語り手の「わたし」は「武家と公家の祖先を持っている」と言うのである。小説ゆえ三島自身のことを書く必要はないけれど、しかし、三島自身は祖母なつが武士の娘であるとはいえ、しかし公家の系譜でも大名の血筋でもない。父方は百姓の血筋から官僚に成り上がって、三島は官僚一族の三代目である。もちろん三島には爵位もない。祖母のなつとて、松平家と関係を持ち、有栖川宮熾仁親王に仕えたとはいえ、上流とはいえ、平民の出である。母は加賀藩に仕えた漢学者の孫娘である。ここに三島の虚栄心がある。はやいはなしが美しい嘘である。



小説『花ざかりの森』は、貴族(日本でいえば皇室もしくは大名の一族)の瞳を持つことを失ってしまった祖母および、母のもとで暮らす「わたし」が、祖母の死後遺品のなかから、平安期に生きた、祖母の祖母にあたる熙明ひろあき夫人の日記と聖書を見つけたことからはじまる。これを契機に「わたし」は平安朝へと遡ってゆく。熙明夫人が「光った草のあいだにちらほらきよ らかな白」に百合を見つけ、「胸にさげたいぶし銀の十字架」に触れる。そこに「わたし」は、わたしの出自と遠く関係するその人が、百合の叢の中に胸に光った十字架をかけているお姿を目撃 する。神秘体験である。この神秘体験は熙明夫人のものであると同時に、語り手の「わたし」の神秘体験として重ね合わされてもいる。



なお、小説の冒頭には(普仏戦争前後を生き、数奇な運命をたどった)シャルル・クロスの言葉が引用され飾られています。「かの女は森の花ざかりに死んで行った。/彼女は余所にもっと青い森のある事を知っていた。」
この言葉は直接的には熙明夫人を指しています。しかしがら、ここにはなつの絶望と自分の系図に妄想的栄華を語ってやまない姿が見える。実は、なつは、平岡家を没落に導いたなつの夫、定太郎ていたろうに絶望し、家計は火の車でありながら、贅沢をやめなかった。自分が置かれている惨めな現実を否定し、輝かしい妄想の世界に救いを求める。なつのこの気質を、あきらかに三島は継承しています。




『花ざかりの森』、17歳にしてありえない巧さです。ただし、別の見方をすれば、三島の場合、体験に先立ってすでにブリリアンントな言語世界ができあがっていて。しかもその観念の世界は堅牢に完成されています。はやいはなしが三島は17歳の癖して、実人生に先立って、初恋も、はじめてのキスも、セックスも、三角関係も、結婚生活も、不倫も、ゲイライフも、SMも、中年期のクライシスも、老齢期の困難も、すべて小説上であらかじめ知っているんですね。まるで17歳で人生を生き終わったかのように。しかし、生身の三島は家庭と劇場と学校と文学者のサークル以外の世界をほぼ知らない青白い童貞の高校生なのだ。



もうひとつ重要なことがあります。当時の日本の文学状況は、日中戦争の戦時下であって、1938年火野葦平の『麦と兵隊』がベストセラーになっています。この作品は日中戦争下に書かれたきわめて具体的な描写で綴られた従軍記で、愛国心と兵士の誇り、そして支那人の殺戮とヒューマニズムが葛藤するさまを描いています。戦時下とは、文学状況もまた戦時下なんですね。そんなか三島の『花ざかりの森』は天才少年作家登場と一部で絶讃されながらも、しかし戦時下の時代精神とはあまりにもほど遠かった、たとえどれだけ三島が日本浪漫派に寵愛されたにしても。





他方、『花ざかりの森』を発表しはじめて以来というもの、先輩の文学青年や文学一筋の学校の先生からの公威くん評価は(当然のことながら)やたら高い。ほとんど神童です。すなわち、クラスのなかでは日陰者ながら、しかし文学サークルのなかでは(一部批判の声もありつつも、おおむね)神童と呼ばれもする、そんなふたつの人生をかれは生きるようになる。



戦争は深刻化し泥仕合と化してゆきます。ラジオは『真珠湾攻撃の歌』『海の神軍』『大東亜決戦の歌』など日本軍の勇壮を尊ぶ歌を流し、映画界は戦意高揚のため国策映画を作りはじめ、講談師も武士の勇ましさを讃えるネタをかけるようになります。しかし、戦況が不利になるとすべてが哀しみの色を帯びてゆきます。




すでに三島は終末観にとりつかれています。世界の終わりと自分の終わりは完全にひとつのものだった。「赤紙が来ようが来まいが一億玉砕はまぬがれないだろう」とおもい、「一作一作を遺作とおもって書き続ける。」三島は学習院高等科を主席卒業、天皇陛下から銀時計を頂戴しています。軍隊入隊をさんざん考えるものの、結局三島は父・梓の強い要請に従い、東大法学部へ進学。20歳で三島も学徒動員で中島飛行機工場に派遣されもした。三島は自分は美の特攻隊になろうと決意する。空襲警報が鳴ると、三島は風呂敷に原稿を入れて防空壕へ急いだ。東京大空襲の時期である。焼夷弾がばら撒かれ、東京もまた火の海に。三島はその火事に解放感を感じ、興奮する。三島もまたたくさんの死体を見た。おぞましく禍々しいその光景に三島が昏いエロスを感じなかったはずがない。







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