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なぜ、フロイト先生がはじめた精神分析は、フランスと日本でいまだに延命しているの?



フロイト先生はオーストリア生まれのユダヤ人で、1856年に生まれて1939年に死んだ。かれは父を憎み、母を愛した。(これがかれの言うところの無意識の発見の契機であり、その後かれが発案したエディプス・コンプレックスという概念に至る。)かれはコドモの頃に受けた教育に反発し、かれは生涯無神論者を貫いた。



分析医としてのフロイトの診療方針は、分析医たる自分が精神疾患にかかって困っている患者と毎回1時間ほど会話を交わし、(フロイトがヒステリー治療をきっかけに発案した)自由連想をさせたりしながら、一週4回、数年を費やしながら、性欲(リビドー)を軸に、患者が無意識化にどんなものに抑圧されているかを理解し、患者の混迷する主体性を取り戻し、社会復帰にいたらしめるもの。(と、要約していいかしらん?)



フロイトの精神分析は、とくに無意識の発見において、西洋の知識人たちに衝撃を与えた。とくに第一次世界大戦によってヨーロッパが焼け野原になって、多くのヨーロッパ人が心的外傷になってからは、なおさらだった。また、アンドレ・ブルトンはフロイトに衝撃を受け、シュルレアリスムという概念とともに、新しい芸術運動を率いた。(もっとも、ブルトンのフロイトへの熱愛に対して、フロイトはそっけなく、相手にしなかったけれど。)



フロイト派の精神分析は、第二次世界大戦後も生き延び、たとえばニューヨークのマンハッタン島には何百もの分析医が開業し、患者たちはけっこうなおカネを払って、寝椅子に横たわり、分析医の質問に答えていた。フランスもまた同様だったらしい。



また、フランス現代思想においては、ジャック・ラカンはフロイトを継承した。かれは考える、人は誰も生まれ落ちた瞬間から両親をはじめとした他者の言語にさらされながら、頼りなく人生をはじめる。したがって、その人の無意識とは、他者のディスクールによって構成されてゆく。同時に、〈無意識は言語のように構造化されている。〉したがって、自動連想によってその人の無意識を引きずり出すことによって、その人ははじめて自分自身を知り、はじめて自分自身の主人になることができる。なるほど、これは魅力的な考えではある。



しかしながら、フロイトがはじめ
ラカンが継承した精神分析は近年(一部の国を除いて)世界中で衰退中ではあって。いまでは、それは科学とは言えないという批判にさらされています。なるほど、これには近現代が科学一神教にとらわれているという批判もあるでしょうが。また、「科学的」な装いとともにある薬理ベースの治療にしてもそれは医師の主観にもとづく診断による対症療法であって、それはけっして患者を完治にいたらしめない。患者は薬の効果で気分こそ変わって楽になりはするものの、しかし、その薬は依存性のあるものばかり。ひじょうに危なっかしい。(近年精神科が処方する薬はむかしに比べれば良くなってきているらしいとはいえ。)そもそも脳科学の最前線であってなお、意識については統一見解はない。したがって、意識の働きであるところの精神について、脳科学はいまだ確たる答えを出し得ていない。精神医学はいったいいつまで過度期を続けるだろう? それは誰にもわからない。いずれにせよ精神分析は世界中で衰退中であり、相対的に(深刻な危険をともないながらも)薬理ベースの治療がまだしも支持されています。そんな潮流のなか、なぜかフランス、ベルギー、アルゼンチン、そして日本だけでいまだ精神分析は延命していて。きわめて興味深いことである。



ロンドン在住の宇多田ヒカルさんは(おかあさまの藤圭子さんの自死以来、自死遺族の会に参加しながら同時に)9年間にわたって、週五回30分ていど、おそらくラカン派の医師による精神分析カウンセリングを受けておられます。宇多田ヒカルさんは自分の精神形成について、好きなことを自由に語り、それに対して医師がちょっとしたアドヴァイスをする。宇多田ヒカルさんはこれを通じて、過去を見つめることで過去から解放され、自分らしい人生を生きることができる。また、他者という理解できない存在について理解できないことを知る。と同時に自分自身との対話をつうじて、死者との関係もまた変化する、と述べておられます。(2022年 Vogue Japan7月号)。宇多田ヒカルさんの哀しみ、迷い、そしてなんとか自分自身を再建しようとする試みに、ぼくは心を締めつけられる。



もっとも、ぼく自身は精神分析の効用も理解できるものの、相手は自分の心という捕らえがたい対象ゆえ、際限のないいとなみであることに途方に暮れる。また、自分が抱え込んでいる問題がすべて心の問題に収斂してしまうことにも危険を感じる。あまりにも俗っぽい考えだけれど、ぼくなら高尾山にでも登るでしょう。もちろん高尾山に登ったところでなんの解決にもならないにせよ、しかし体を動かし、自然に触れれば、心は心の外に開かれる。



他方、フランスにおいては、かれらが哲学教育を受けて育っているゆえ、どうしても言語に囚われてしまって、その結果、言語的思考の批判者として精神分析がいまだ有効であると見なすのだろう。さらに言えば、クリスチャンは聖書を読んで育つこととも、いくらかなりとも関係しているでしょう。さらに踏み込んで言えば、精神分析は人が自分自身の無意識を探査する冒険ロマンスにさえなっているでしょう。誰にとっても、自分自身こそがもっとも不可解な他者なのだから。



他方、精神疾患にかかった患者をクスリ漬けにしてしまう現代の薬理ベースの精神医学もまたあまりにも危険ではあって。




では、精神疾患はどうやって治療すればいい? ぼくは分子栄養学を支持しています。なお、分子栄養学は精神疾患の治療実績を山ほど持っています。ただし、患者によっては自分の迷い、ひいては精神疾患が、ヴィタミン&ミネラル如きで治ってしまうことに釈然としない人もまた多いでしょう。人は精神疾患にかかろうがかかるまいが治ろうが治るまいが、言語に囚われていることにかわりはありませんからね。



ぼくは精神分析をほとんど信じていないけれど、それでもときどき精神分析関係の本を読む。とてもおもしろいし、学びも多い。余談ながら、若い頃フォーク・クルセダーズのメンバー兼作詞家として活躍した北山修さんは、その後、精神分析の大家となった。若かった日にかれが作詞した『あの素晴らしい愛をもう一度』という歌をぼくはおもいだす。「命賭けてと誓った日から、素敵なおもいで作ってきたのに。あのとき同じ花を見て美しいと言ったふたりの、心と心が、いまはもう通わない。あの素晴らしい愛をもう一度」。そんな詞を書いた青年詩人が時を経て精神分析の大家になった。文学はひとつの隠しドアを持っている。そのドアは精神分析に通じている。たとえ精神医学の主流がどう変わろうとも、それはけっして変わらないでしょう。




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