いかにして小説の読者は減っていったか?

あなたは小説を読むのが好きですか? 好きな小説家はいますか? ぼくの贔屓はーー。筒井康隆(デビューの1965年から1980年あたりまでの作品の底抜けなおもしろさ。しかも2015年の『モナドの領域』もすばらしい。)村上春樹(春樹さん読者には美女率が高く、ぼくは春樹さんの読者で良かった!)、トルーマン・カポーティ(春樹さんの訳文、最高!)、ボルヘス(インテリを気取るのに便利)、カフカ(自分を笑う知性!)、ガルシア=マルケス(巧みな話術、ホラと冗談の活用!)。そんなぼくにとって淋しいことは、街の本屋さんがどんどん減っていること。東京の本屋さんでめぼしいのは丸善、ジュンク堂、ブックファースト、有隣堂くらいで、しかもそれらの本屋さんであってなお、純文学の棚はいくらかなりとも縮小傾向にあって。また、翻訳小説の出版点数も減っています。本屋が減り、読者も減って、翻訳家は労働に対する対価を得られず、出版社もまた翻訳出版点数を減らしてゆく。まるでホラーだ。いったいどういう事情でこの負のサイクルが始動をはじめただろう? おそらく事情は複雑だ。


まず最初に、外国語の小説を翻訳者は、専業翻訳家のみならず、大学の先生もまた多い。ところが、00年前後からすでに私立大学の文学部は減り始め、「国際なんちゃら学部」とか「情報なんちゃら学部」「コミュニケーションなんちゃら学部」のなかに組み込まれる傾向がはじまった。とうぜん文学部の先生の研究費も減り、文学専攻の学生も減少していった。こうして文学との出会いの機会が減ってゆく。さらには2003年国立大学法人法が制定され、要するに文部科学省の言い分としては国立大学も補助金ばかりに頼ることなく、少しは自分で稼ぎなさいという時代になった。人文系は稼ぎにうとく、いっそう肩身が狭くなってゆく。また学生にとっても、(やや飛躍した感想かもしれないけれど)、せっかく大学に入りながら考える方法を知ることもなく、考える道具をも身に着けることなく卒業する学生が増えてゆく。(いくら美女とは言え三浦瑠璃さんを見れば大学教育の惨状の一端がよくわかる。まさか東京大学大学院にインテリ客向けのキャバ嬢学科が新設されたのか、とぼくは呆れたものだ。いいえ、男の学者だってひどいもの、べつにもっぱらイスラエルを支持すべきではないとはいえ、また誰だってパレスチナ人民の苦境に胸を締めつけられるとはいえ、しかし、だからと言ってハマスがけっしてパレスチナを代表しているわけではないことは明白であるにもかかわらずそれを認めたくない東大先端技術センター教授の池内恵先生のさいきんのご乱心はいったいどうなっているの???)こういう惨状を受けて(?)2016年(平成28年)文部科学省は国立大学の人文~社会学の学部を縮小した方がいいという通達を出した。もはや文学部のみならず、人文科学さえ危機なのだ。2022年(令和4年)国際卓越研究大学法が制定され、十兆円の大学ファンドを設け、国際的に稼ぐ大学を作ろうと大学行政に介入をしておられます。悪い予感がするのは、ぼくだけではないでしょう。


他方、00年あたりから新聞の部数もどんどん減っていて、新聞がいくらかなりとも文化のパトロンでもあったことをおもえば、これもまた小説衰退に拍車をもかけたことでしょう。


ぼくが推理していることはもうひとつある。もしかして2010年前後からあまねく広く普及していったスマートフォンによって、PCさえも持たない人が増えていったこと。こうなるとそれこそ飽きずに読める文字は150字まで、ということになりかねない。人は楽な方に流れるもの。本読むよりもYOUTUBE見る方が楽ですものね。


さらにぼくは邪推する、2010年あたりから人の書くエッセイがつまらなくなったような気がする。自分の生活や経験を文字に起こし、状景を描き、ささやかな物語化をして、読者をたのしませる書き手が減って来た。それに代わって、こうやれば儲かる、モテる、若返る、そんなお得な情報を提供する文章が増えて来た。むかしながらのことながら政治経済の解説なんてのも多い。情報が氾濫して、人の姿が見えない。こうして小説の落日は訪れた。


しかし、なにもかもを情報化することができるなんて考えるのは傲慢なこと。それどころか人生のよろこびのすべては情報の外にある。そしてその情報にならない事柄を文字と物語のかたちで伝えるところに小説のありがたさがあるのだけれど。これもまた情報社会にまるっと適合している人にはわかってもらえないことでしょう。


もっとも、むかしもいまも社会はままならないもの。時代がどうあれ、ぼくは小説を読む。だって、たのしいもの。

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