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三島がコドモの頃から潜在的同性愛者だったというのは、ほんとうなのか?

橋本治さんは名著『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社2002年刊)第二章のなかでこう書いておられます。「『仮面の告白』の園子は、日本文学史上最も魅力のないヒロインである。性的抑圧が強く偽善的でー典型的な中産階級の娘である。なんの魅力もない。」ぼくはおもう、なるほどそれは橋本さんのおっしゃるとおりだけれど、では、なぜ園子がそのように描かれるに至ったのか? ぼくはおもう、その半分は園子のモデルによるものであり、残りの半分は三島がこの小説を書く段階で、すでに自分を振った園子を(小説構成上最低限以上には)素敵に描く気がなかったからでしょう。そのくらい三島の園子への怒りは深い。やがてぼくは『仮面の告白』における主人公三島の主張を疑うようになった。では、いったいぼくはどこを、どのように疑うのか?




『仮面の告白』は4章構成で、自分がいかに男色に惹かれていったかを自分自身で分析したリビドーの履歴書であるという体裁である。ところが後半の3章で、園子が登場してからふんいきは一転する。戦時下のいつ命を落としても不思議はないなか、若い男女が恋に落ちる。この設定なのだもの、メロドラマが盛り上がらないはずがない。ところが『仮面の告白』はそうはゆかない。三島は園子が弾くピアノをきっかけに園子に夢中になるものの、オクテな三島は彼女との接吻への期待で胸いっぱい。三島はなんとか園子と接吻までは持ち込めたものの、しかしその先に踏み込めない。結局、園子は三島を捨てて他の男と結婚してしまう。三島は振られ傷つく。そしてあろうことか三島は、ぼくは園子なんか愛していなかったんだ、と自分の気持ちにうそぶく。ここがいかにも三島らしい。その後三島は友人に手を引かれ、いまで言う風俗店にも出向いたものの、しかしそこでも三島はだめだった。そんな三島は『仮面の告白』のエンディングで、結婚後の園子と会う。この場面がなんともえぐい。



人妻となった園子はいけしゃあしゃあと三島に訊ねるのだ、「おかしなことをうかがうけれど、あなたはもうでしょう。もちろんあのことはご存じでしょう」
はやいはなしが園子は三島に訊ねているのだ、「あなたもう(わたしとつきあっていたころとは違って)童貞は捨てたんでしょ?」



なるほど、女は自分がやって欲しいときに男がやらなかったならば、男は女にえんえん恨まれるものなのだ。とはいえ、である。園子も園子である。いくら三島がオクテだからと言って、自分がやらせてやんなかった癖に、ひさしぶりに再会した男にそんなこと訊ねますか、マダム園子さん?



三島はおごそかに答える、
「うん、知ってますね。残念ながら。」
園子は訊ねる、「いつ頃? どなたと?」
三島はあいまいに答える、「春ですね。」
「名前は言えない。」



三島にだってプライドがある。しかも、三島のプライドは富士山を超えている。しかし、鈍感な園子がそんなことに気づくはずもない。三島を愛する童貞読者は園子に怒る、うるせー、園子、おまえの知ったことか! 三島はまだ童貞なんだよ、見栄張ってるだけなんだよ。察してやれよ、園子。しかし、空気の読めない園子にそんなことが察せるわけがない。



こうして三島は園子に(見かけ上の)復讐を果たす。園子は理解する、三島は自分ではなく、他の女を選んだのだ。(なお、三島は小説内でこのせりふが嘘であることを読者にだけは誠実に明かしています。)園子は傷つく。とはいえ、園子はすでに人妻であり、園子にとって三島は過去の人。こうして『仮面の告白』はなんとなく中途半端なまま幕を下ろす。




この小説を最後まで読み終えたぼくは、三島の自己申告に疑いを持つようになる。三島は主張する、〈コドモの頃から自分は潜在的男色者だったんだ、だから女を精神的にも肉体的に愛そうと努力した、でもだめだったんだ〉、しかし、これはいかにも怪しい。次の章で具体的に考察してみたい。








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