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サルヴァドール・ダリをきっかけに、普仏戦争以降の芸術観の変遷を考える。

映画 ウェルカム・トゥ・ダリ(原題 Daliland)を観た。1960年代の狂乱のニューヨークを舞台に、ダリとその妻ガラの複雑な関係、そしてダリとアメリカの奔放な蜜月とその落日が描かれます。映画の主人公のダリは、大言壮語のトリックスター、妻のガラを創造の女神として讃え、贅沢三昧なパーティに明け暮れるセレブな日々を送っています。なお、ガラはカネにうるさい強欲なマネージャーであるとともに、若い男に夢中で、ガラの不倫にダリは気づいていながらもしかしそんなガラを受け入れてもいます。ともすればずる賢く、ちゃっかり裏金を稼ごうとする画廊関係者もまた脇役として活躍します。そしてそんなダリとガラの虚栄の日々にもやがて落日が訪れる。あるいはそれはアートが輝いていた最後の時代かもしれません。


ダリは1904年生まれで、長生きして1987年に亡くなっています。ダリの生涯を視点に、欧米近代芸術の栄枯盛衰を見ることができます。おもえば近代芸術は、戦争のたびにモードを変えてきました。まず最初にダリが生れてくる三十数年前、普仏戦争によってフランスはドイツに踏み込まれてぼこぼこにされて、当時若かった詩人のランボーは発狂せんばかりに、その詩『地獄の季節』を書き殴ったもの。フランス人全員もまた発狂寸前でした。戦後フランスは失意とカオスの5年間を経て、第三共和政の時代を迎えます。この時期ストリートに沸いて来たのが若く貧乏な印象派の画家たちなのですが、しかし、アカデミズムはかれらを嘲笑したもの、「なんであんなもん描いてるんだ、あいつらは。バカなのか。」(大意)。ところがそんな第三共和政も二十年経って、パリに鋼鉄の女王、エッフェル塔が建つ頃になると、かれらは自分たちの政体、第三共和政に自信を持っちゃって、この時期にかれらは印象派を自分たちの芸術として自覚するようになります。ただのそのへんのお嬢さんがピアノを弾いている、そんな、ルノワールの絵がかれらの誇りになったわけです。もちろんモネ、そしてマティス、ピカソへの道も開かれてゆきます。かれらフランス人にとっては、ようやく王様の時代を完全に終わらせて、われわれはわれわれ市民が作りあげたわれわれの社会に生きてるんだ、というわけ。



ところが第一次世界大戦によって、ヨーロッパはまたしても地獄を体験します。戦後シュルレアリスムが台頭しました。それはまさに地獄を経験した画家が描き、たくさんの死を見せつけられた観衆が観る絵画でした。ダリは若い頃、ヨーロッパでは、遅れて来たシュルレアリストとして、冷遇された。そもそもシュルレアリスム運動は、アンドレ・ブルトンが主宰した党派的芸術運動であって。なお、 シュルレアリスム運動は、 共産党さながらに、ブルトン総督ほか上層部の芸術家たちが人事権を握っていて、芸術家を勧誘もすれば除名もする。したがって、けっこう内紛の絶えないものでした。


さて、第二次世界大戦後は、世界の政治経済の覇権が(ひかえめに言っても表面的には)大英帝国からアメリカに移る。ここでアメリカははじめて自国の芸術として、ポロックとロスコを大芸術家として売り込むことに成功します。そしてその十年後にはアメリカはポップアートを売り込む。



アメリカはドルの力、そして画商と批評家、ニューヨークタイムズあたりのメディアがグルになって巨大なマーケットを動かす社会。他方、マネーメイキングなアーティストは、大金持ちになると同時に、セレブ社会のお抱えのピエロのようなところもある。そのうえ、業界関係者たちの気まぐれで、アーティストは 拍手喝采を浴びもすれば、ブーイングに見舞われもする。1960年代、あのしっちゃかめっちゃかなニューヨークで、ダリはヒッピーとロックの全盛期を体験し、かつまたアンディ・ウォーホルの同時代人であり、ダリはトリックスターとして大活躍した。アメリカ人は成金ゆえ、内心ヨーロッパに劣等感を持っていますから、ダリも居心地が良かったことでしょう、ある時期までは。しかし、(案の定)映画ウェルカム・トゥ・ダリ(原題 Daliland)は寂寞感の垂れ込める鈍色の結末を迎えます。まるで欧米近代芸術の栄枯盛衰を象徴するように。


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