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ぼくの文章読本、音楽篇。西洋クラシック音楽ひいてはジャズに惑溺すれば、おのずと文章は巧くなる。

近代以降の文章は、最初に著者の気づき(主題)を提示して、それを読者が納得できるように、読者の共感を担保にして、読者の喜怒哀楽をくすぐりながら、ステップ・バイ・ステップで論理を展開させ、おもいがけない結論(あるいは物語の出口)へ運んでてゆくもの。おもえば、これは西洋クラシック音楽、ひいてはジャズと同じ構造ですね。



近年もっとも読み良く魅力的な、そして読者の心をつかんで離さない文章を書く作家は、村上春樹さんではないかしら。ご存じのとおり春樹さんは根っからのジャズマニアであり、クラシックも、ロックも大好きでしょ。春樹さんの文章の読みやすさは、あきらかにその文章の音楽性と音楽的な論理の運びにある。音楽にぞっこん惑溺すれば、書く文章もまた音楽的になるものなのだ。やや余談ながら、落語家の古今亭志ん朝も川柳川柳かわやなぎ・せんりゅうも、はたまた立川志の輔もジャズが好きで好きでたまらない。そもそも日本近代文学の祖は、三遊亭円朝という見方さえあるほど。



いくらか対照的に、なるほど三島由紀夫の文章はきわめて論理的な運びをするものの、しかし、エッセイはともあれ、小説はいささか読みにくい。これは三島が音楽にさほど関心を持たなかったことに由来するでしょう。むしろ三島の文章は絵画的である。なるほど文章によって絵が見えてくることは大事なことながら、しかし、絵はあくまでも瞬間を切り取るものであって、論理の運びとは関係がない。三島の書く小説は、音楽とは無縁な文体で語られる、法学の罪状確定論的な論理の運びのなかに要所要所に絵が埋め込まれていて、したがって、読みにくい。



すなわち、西洋クラシック音楽ひいてはジャズに惑溺すれば、おのずと文章は巧くなる。意外におもわれるかもしれないけれど、しかし、これは真実である。なお、こういうふうに書くと、ぼくは(神をも恐れず!)三島の文章を「下手」と見なしていることになってしまうけれど、しかし、正確に言えば三島の文章は、「巧いけれど、読みにくい。」文章の運びに音楽が流れていないから。





なお、2024年の一年間ぼくはピアニストの石田幹雄さんのライヴに月1回足を運び、その演奏に魅了され惑溺し、以上のような意見を持つようになった。ゆうべもぼくは西荻窪アケタの店で、ピアニストの石田さんとアルトサックスの石崎忍さんの、抒情と論理が幸福な結婚をしたような極上にスリリングな未曾有に冒険的な演奏を楽しんだ。例によってお客は少なかったものの、ぼくらお客はおそらく全員、審美主義における同志意識を持ったことでしょう。ぼくらは心底幸福だった。いつの日かぼくも、石田さんの音楽のレヴェルで文章を書けるようになってみたい、それはまさに遥かな高みではあるけれど。


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