ゲイ・バー。戦後復興、朝鮮戦争特需、『禁色』とその時代。
『禁色』の背景に触れておきましょう。三島は赤坂見附にあった将校向けの高級キャバレー「ニュー・ラテンクォーター」でモンキーダンスを踊りもした時期を経て、お気に入りの店はよそへ移った。当時東京には複数のゲイ・バーがあって、三島が最後にたどり着いたのが銀座五丁目、表通りの一本裏にあった「銀座ブランスウヰツク」である。店名のBrown's Wickは〈燃え焦げて茶色くなった蝋燭の芯〉という意味ではなく、おそらく俗語Wicking に由来し〈性別を問わず眠っている誰かの口のなかに、興奮した自分の男性器を差し込む行為〉のことでしょう。余談ながら"dip the wick"は男性器を女性器もしくは男性のほぐした肛門に挿入すること。いやはや、わかる人にだけわかる変態たちを誘惑するとんでもない店名である。老いも若きも男たちだけがこの店に集まった。淫靡な親密さと昏い同類意識が溶け合ったふんいきが、光と闇のなかに漂っていた。
経営者はケリーと呼ばれる日本人。大きな水槽があり、壁には闘牛のポスターが貼られ、きらびやかな照明と暗がりを残したコントラストがドラマティックで、しかもギャルソンは息を飲むほどの美少年揃いだった。安部譲二は店の用心棒だった。26歳の三島はこの店に通い詰めた、編集者や知人を連れて。もちろんかれらはおもった、小説どおりほんとに三島はゲイなんだ!
(余談ながら三島は1966年に安部譲二の27歳までの人生を描いた『複雑な彼』というエンターテイメント小説を発表しています。1966年と言えばすでに三島の右傾化がはじまっていて、しかも『憂国』をみずからの監督・脚本・主演によって28分の短編映画に仕上げています。なぜ、この時期に安部譲二を主題にしたエンターテイメント小説を書いたのか、これもひとつの謎です。他方、三島の12歳年下である安部譲二は、1986年『塀の中の懲りない面々』という本物のヤクザだった自分の過去を主題にした自伝的小説を発表してベストセラーになった。いいえ、本題に戻りましょう。)
「銀座ブランスウヰツク」で三島はかれが「天上の美」と讃美する十歳年下の少年歌手に出会う。丸山明宏(現・美輪明宏)は16歳の美少年歌手だった。なお、「銀座ブランスウヰツク」は『禁色』に登場するルドンのモデルになった。
その後、丸山は開店したばかりの銀座7丁目シャンソン・カフェバー、110席の銀巴里に移り、三島もまた丸山を追いかけ銀巴里に通った。なお、戦後の日本は空前のシャンソン・ブームで、少し後のことながらダミア、ジョセフィン・ベーカー、イベット・ジローが来日します。
銀巴里では、丸山の他に金子由香利、戸川昌子、岸洋子らが専属歌手として歌た。三島が『禁色』を執筆した時期から数年後からのことながら、まだ少年の面影を残すなかにし礼は歌手たちにシャンソンの訳詞を提供するようになる。
当時銀巴里にはさまざまな文化人が集まった。岡本太郎、江戸川乱歩、三島が連れて来た川端康成、遠藤周作、吉行淳之介、菅原文太・・・、野坂昭如にいたっては、客だったはずがいつのまにかステージに立って歌いはじめたほど。
あるとき三島は丸山の独創的な衣装に苦言を呈した、そのとき丸山は自分の衣装に込めた意図を語り、返す刀でさらりと「三島さんの恰好こそ退屈よ、毎日同じ格好をしてらして、服の方だって飽きてるんじゃないかしら」と言い放った。そのとき三島は実はおれも皮ジャンとジーンズを着たいんだと漏らし、後日丸山は三島をアメ横に案内した。また、三島がステージで歌を歌ったり、また映画に出るようになるのも丸山明宏の影響だった可能性がある。いずれにせよ、三島の遅れて来た反抗期は二十代半ばにはじまるのだった。
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