かつてあじわったことのない深甚な恐怖感が鳥をとらえた。
大江健三郎は、人間の最も低俗な負の感情(恥や恐れ、後悔)を言語化する天才である。
彼は陋劣で下賤な感情を、様々な方法によって形容、比喩する。
其れは恰も幻想的で、詩的に映るが、絶妙にリアルで写実的である。
誰しもが数千度数万度と抱いた感情を読者に喚起させ、読者は共感性羞恥の虜となる。
そんな大江健三郎の作品と出会ったのはそう昔ではない。
1年前。属したばかりの仕事場に慣れず、辟易していた私を見兼ねた上司が飲みに誘ってくれたのがきっかけだった。場末の安居酒屋で二人対峙する中、発端は覚えてはいないが、お互いの愛読書を紹介し合うこととなった。その時上司が私に読むよう薦めたのが大江健三郎の「個人的な体験」だった。正直私は人から薦められた本を読むのが嫌いだった。嫌いと言うより、今まで知り合いから本を推薦され、読破出来た試しがなかった。例に漏れず、その個人的な体験も読もうとはしなかった。
ある日、親友(彼は常に死を望み、また死を拒絶している男である。)とともに書店に入った。悪しき50~200nm程の粒子が世界を檻に閉じ込める渦中、読書するくらいしかすることがなかったのである。その時ふと目に入ったのが、大江健三郎の「個人的な体験」だった。江戸川乱歩短編集と個人的な体験を片手に書店を出、独房に戻り読書に耽る。
個人的な体験を読み進め、衝撃を受けた。それは、「リアルの言語化」に対するものである。主人公バードは、身勝手で逃避勝ちな男だ。その男の所作ひとつひとつに、読み手は苛立ちすら覚える。しかし、バードのとる行動一つ一つに対するバード自身の罪悪感や自己正当化が、自分に重なり、共感せざるを得ない。だが、ふと立ち帰る。(いやまて、よくもこの感情を言語化できるな)と感心してしまうのだ。その言語化の客体は妙にリアルなのだが、表現方法が幻想的でこれまた詩的なのである。
個人的な体験を通して強く感じることは、
「事実に対して忍耐をもって誠実に向き合わなければいけない。向き合えば些かの希望が待つ」
ということだ。それが個人的な体験を通して大江が訴えたかったことなのだと思う。
結末の文に対する、「大江がオプティシズムに囚われた為に、作品の芸術性を崩壊させてしまった」という非難があるが、それはナンセンスだ。芸術性を崩壊させてしまうほどに、忍耐をもって誠実に向き合う未来に希望(成長)が待つ、という事を切実に訴えているのだ。
読み終わってやっと、なぜこの本を上司が私に薦めたのかがわかった気がした。他人が薦める本を読むのも、悪くない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?