つくし
いつからだろうか…
つくしの存在に気付かなくなった。
小学校の帰り道、何か目的があるわけもなく、ただただつくしを摘むことが楽しかった。たくさんとったつくしを母に満面の笑みで自慢する。
「すごいねぇ」といいながらも困ったような顔をした母。子どもを持ってみて振り返れば、その表情に共感する。
あの頃は春といえばつくしだったのに。いつの間にかつくしをみなくなった。いや、気づかなくなった。あるはずなのに、私の視界には入らなくなったらしい。
子どもたちが生まれても特段変わらず、「子どもにつくしがあるね」と声をかけた覚えもない。仕事と家事と育児の狭間でつくしという言葉自体も正直忘れていた。
習い事に送るために長女と自転車で走る中、長女が「ママ、見て!」と自転車をふいに止める。彼女の指さした先にあったのはつくし。「あ!つくしだ」とふいに叫んだのだが、『つくし』という言葉を発するのが違和感があるほどひさしぶりに『つくし』と言葉にした。
彼女はいつ『つくし』という言葉を知ったんだろう。誰が教えたんだろう。
私でないことは確かなようだ。
子どもから教えられた春の訪れ。
彼女が見せてくれたつくし。小さいけれど、ガードレールの下に雑草たちと一緒に一生懸命生きていた。
忙しさに追われる毎日。つくしの存在に気付かなくなった。
つくしと春の訪れを子どもたちと感じられるように。
そう、子どもたちの変化をもっと感じたい。
この春、やりたいこと。