【小説】病院ねこのヘンナちゃん⑲ (episode1)
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人の機嫌に引きずられない覚悟。
その言葉は、楓子さんにズシンと衝撃を与えたみたい。
ノートにひときわ大きくメモすると、アンダーラインまで引いた。
ブツブツと口の中で繰り返している。
大事なことをお肚に落とすには、潜在意識にすり込むように、何度も言葉にするといいわよね。
自分の口から出た言葉を、自分の耳で聞き、脳に刻みつけるの。
アタシは可愛い仔猫だから、放っておいても、みんなが機嫌を取ってくれる。
相手の機嫌の善し悪しに引きずられて、自分まで辛くなるなんてことは、ほぼない。
その点、人間は大変ね。
楓子さんのブツブツが収まった時点で、ヒヨコ先生が次の質問をする。
「じゃあ逆に、業務の中で一番得意…というか、モチベーションがあがるのはどんなこと?」
「そうですねぇ。」
楓子さんが首をかしげると、ラベンダー色のショールが少し肩からずりおちた。
裾のフリンジが揺れて、アタシは猫じゃらしを前にした猫みたいに、つい前脚でじゃれついてしまう。
だってしかたないじゃない、本能なんだから。
「だめよ、ヘンナちゃん。」
楓子さんの手が、アタシの前脚を優しく包む。
柔らかくていい匂いがする~~ぅ。💕
「住宅展示会や内覧会で、モデルハウスや新築の家を公開するんですけど、その準備をするのは好きです。
お花やちょっとした小物を飾りますが、素敵な暮らしを演出するのでそれなりにお洒落な物を探してきます。
ピカピカのレードルや可愛いポットやフルーツのかごを、最新式のキッチンに配置する時、ああでもない、こうでもない…と一番ぴったりくる配置を考えるんです。
その家に暮らす人たちのことを想像しながら設えるのは、自分の家ではないのに、なんだかワクワクします。」
「なるほど。」
「それと、先日、会社にいらっしゃったお客様なんですが。
すでにご契約いただいたお客様で、家の方は棟上げまで終わっています。
設備や内装なども全部決定済みだったのに、奥様がなんだか違う気がする…と仰って。
奥様は妊娠8カ月で、間もなく赤ちゃんが生まれます。
プランニングをした頃は悪阻がひどくて、家のことに集中できなかったようです。
基本的な間取りや設備は問題ないのですが、壁紙や照明を再考したいとのことでした。
すでに発注は終わっていましたが、まだ納品前だったので、なんとかなると…ご相談を受けることにしました。
生憎デザイナーが不在で、カタログと首っ引きで、私が奥様と一緒に新しい壁紙と照明器具を選びなおしたんです。
はっと気がついた時には、3時間経っていました。」
「まあ。」
「妊婦さんに無理をさせてしまったかも…と反省しましたが、なんだかあっという間で。
このお客様は、どんなカラーやテイストが好きで、どんな暮らしをしたいと思っていて、どんな雰囲気ならくつろげるのかしら…と、あれこれ考えて提案していたら、夢中になってしまいました。」
「つまりそういう仕事が、好きなのね。」
「はい。1対1で、腰を据えて、じっくりお話するのは好きだと思います。」
「うんうん。それはHSP(ハイリ-・センシティブ・パーソン)のアドバンテージでもあるね。
HSPが気がついてしまうのは、自分の神経を疲れさせる情報ばかりじゃない。
たとえば空が青いとか、空気が澄んでいるとか、足元にタンポポが咲いているとか、鳥のさえずりが可愛いとか、今日のコーヒーは格別香り高いとか、普通の人がスルーしてしまうことに、気がつける。
いわば小さなしあわせを見つけやすいの。
これって、いいことだと思わない?」
「はい。」
「そして目の前の人のニーズや気持ちもよく分かる。でしょ?」
なるほど。楓子さんは猫の言葉が分かるんじゃないか…と思ったけど、もしかしてそういうこと?
「ねえ、勉強してみたら?…カラーとかインテリアとか。
今の会社で、そんな業務につけるかどうかは分からないけれど、貴女にあってると思うよ。
なにより、ワクワクするんでしょ?」
楓子さんは、首がもげそうなほど激しく頷いた。
「さっき、好きなことが分からないって言ったよね。
楓子さんは、自分を消耗させる外からの刺激に対して、無意識に感覚を閉ざそうとしているんだと思う。
でも感覚を閉ざすということは、イヤな刺激を遮断するだけでなく、自分の好きを感じるセンサーも閉ざしてしまうのよ。」
あ!楓子さんの目が赤くうるんできた。
美祈さんもそうだった。
”本当のこと”に触れる時、人間は涙を流す…。
「わたし、ずっと知りたかった…。
自分がどんな人なのか。
何が好きで、何が欲しくて、何が嬉しくて、どこに行きたくて、何を経験したいのか…、ずっと曖昧でよく分かりませんでした。
ヘンナちゃんの前で言うのもなんですけど、いつもどこか借りてきた猫みたいで…。
身の置き所がないというか、居場所が見つからないというか。
でもみんなそうだと思っていて。人生なんてそんなものだと、思っていて。
本当は、…本当はもっと人とも関わりたかった。」
「そうだよね。」
「本当はもっと誰かを愛して、もっと誰かに愛されたい。」
ヒヨコ先生が楓子さんの背中に、そっと手を置いた。