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私を奪ったのは、

安積山閉じ込められし身の上は淋しきままにかたち失う(ASAKAYAMA TOJIKOMERARESHI MINOUE HA SABISIKI MAMA NI KATACHI USHINAU)

私を奪ったのは、何も持たないただの男だった。

何も持っていない。

位も力も美貌も聡明さも、何ひとつとして
持たない男だった。

男のたったひとつの狂言のために、私の安寧は
いとも簡単に反転した。

私はこの何もできない命を永らえるために、
男を待つだけの日々を過ごした。

そして生きるために体を許した。

ただ、心はお屋敷での日々とこれから得られるはずだった
帝との日々を求め続けた。

やがて身籠った。

ある日身重の体で偶然に目にした私の姿は、
美しさでかしずかれた頃の面影を残してはいなかった。

唯一の拠り所だったものが、どうして。

私は男をずっと待っていたけれど、
本当に待っていたのはあの人じゃない。

私が焦がれ続けた人は、生活は、もう叶わない
遠いところにある。

在りし日の形をとどめない自分を知り、
私はこの日々と命を手放した。

狂おしくてありふれた、淋しい憧れのお話。

(大和物語 第百五十五段「安積山」筆者意訳)

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