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#133 感情労働者としての教師
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■教師のしごと
教師という仕事は、児童生徒、保護者と直接関わる密度が濃いことから「感情労働」に分類される。
教育はサービス業だと言う人もいるが、少なくとも公教育としての学校は、利潤追求型の企業活動とは異なる。
公教育に市場原理が導入されてきた歴史もあるが、その善し悪しはまた別な機会に論じることにする。
人と交わったり、いろいろなことに追われ、あっという間に1日が過ぎるのは学校に限ったことではない。
人と関わる以上、人に支えられることもあれば、傷つけたり傷つけらることもある。
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教師は特に心身の発達途上にある児童生徒の成長を願って心を砕いているが、一方では、子どもを取り巻く大人(同僚、保護者、PTA、学校外関係者)とのやりとりに追われる日々を過ごしている。
私自身、教諭や管理職として、地方から都市部まで、大・中・小規模校を7校経験してきたが、各校独自に築いてきた組織の文化(これを“癖”という場合もある)があり、スクラップ&ビルドも経験してきた。
幸い、チーム学校として機能している学校が多かったので、常に周囲に助けられ救われながら仕事をすることができた。
困難に直面した時、問題解決の手法に問題があるというよりは、みんな時間に追われ時間に流されていくなかで傷口を広げている場合もある。
「昔は・・・・」と言ってはいけないのだろう。
今や先生たちにのしかかる負担も大きくなり、困難な状況に陥っている学校、教師のことがメディアで報じられている。
残念なデータがある。
文科省の人事行政状況調査によると、昨年度、公立学校の教職員の精神疾患による休職者数は5,359人(0.71%)で前年度から642人増加し、過去最多に上ったことが分かっている。
学校種別では
小学校 3,202(0.77%)
中学校 1,576人(0.68%)
高校 849人(0.49%)
特別支援学校が872人(0.96%)
特別支援学校での割合が高かい。
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厚労省の統計では、日本の労働者の52%が仕事で強いストレスを感じているとされている。
民間企業の場合だと、自分が長期休業してしまうと数百万~数千万円の損失につながるという恐怖もストレスにつながる。
勢い、会社も社員も精神論で乗り切ろうとする。
教師が突出して高いわけではないが、「あってはならないこと」が起こっている以上、数値の大小の問題ではない。
文科省が12月に、中央教育審議会の「質の高い教師の確保特別部会」を開いたことが報じられた。
教職員定数の改善や配置を議論し、教職員定数の算出方法の見直しや、持ちコマ数の設定を巡って意見が交わされた。
時間の負担をどう減らすかに手をつけはじめると、日常の「断捨離」と同じで
「これは捨てられない」
「それも大事、あれも大事」
と思ってなかなか整理できない。
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教育課程には教科学習だけでなく特別活動も入っている。
部活動は教育課程外なので、外部委託という話にもなって負担軽減を実現している例も報告されているが、依然として部活指導と学習活動のバランスの取り方にストレスを感じている教員は多い。
■人数を増やす?時間を削減する?
教員定数は学校規模(学級数)と基礎定数と、目的(教育課程上の科目数・単位数)に応じて配分される加配定数に分類される。
算定根拠資料 PDF ↓
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/029/shiryo/05070501/s003.pdf
基礎定数は学級数に「乗ずる数」と呼ばれる係数を掛けて算出している。
この乗ずる数は、義務標準法の制定当時の小学校で1人の教員が週6日24コマ程度授業することを念頭に決められたもので、現在の週5日制の基準に基づいた係数ではない。
法の制定当初に1日4コマと考えられていた趣旨が無視されている実態がある。
時代の流れに合わせた見直しが必要だということだ。
しかし、教員の持ちコマ数の軽減の必要性が主張される一方で、国が一律に定めることは校長の裁量を縛ることになり、上限が目的化したり教育活動の制限につながったりしかねないという懸念が指摘されている。
人材確保の基準と校長の裁量・判断は矛盾する話ではないはずだ
法律で枠を決めて、その分の予算を確保していける制度を考えていくべきなのだろう。
実態は、学校設置者である都道府県や政令市の教育委員会ごとで大きな差がある。
つまり、巷間ささやかれている「教師の仕事はブラック」というのは全国すべての学校に当てはまるわけではない。
困り感に苛まれている教師がいることは確かだ。
誠実に対応しようとすればするほどアリ地獄でもがくような状況に陥り、気力も体力も萎えていく。
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自分の初任時のことを振り返ってみると、教師は生徒を傷つけかねない危うさの「綱渡り」をしていると感じていた。
保護者からお叱りを受けることもあった。
管理職や先輩のフォローに助けられてきたのは幸いである。
「チーム学校」が伝統になっている組織は、次々と人が育っている。
若い頃は、勢いにまかせて学習指導も生徒指導も「生活習慣の徹底」の名の下に
「生徒が遅刻せず定時に登校するのは当たり前」
「生徒が身だしなみを整えるのは当然」
「生徒の本分は勉強すること」
と唱え、学校という空間への強いこだわりに邁進していた。
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「ちゃんとやらないといい成績をとれないぞ」という教師の評価権をかざした脅しもあった。
「結果よりも過程が大事」とプロセス評価を重んじる発言をしていながら、結果にこだわって生徒を追い詰める指導もしていたと思う。
子どもたちの全ての活動について「なぜ」「どうして」という問いを立て、教師同士が自分たちの教育実践を相対化して見直す作業をちゃんとやっていれば課題解決をはかることができるのだろうが、議論する機会が確保できずにもがいていた。
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なぜ?
「時間がないから・・・・」
管理職に就いたとき忸怩たる思いに苛まれたが、自分なりの問いを立てることから始めた。
誰のための学校か、何のための学校か。
個と集団へのアプローチの統合は、言うは易く行うは難しであることを感じたが、手をこまねいているわけにはいかない。
小さな改革を重ねてきたが、組織は3年もすれば劣化がはじまる。
自分がなし得なかったことは、外から支援することにしている現在、体力と気力が続く限り恩送りしていこうと思う。