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#316 「あとで読む」は後になっても読まない

先日、学生との面談でこんな話があった。

「読書しなきゃいけないと思ってるんですがスマホばかり見てしまって・・・・」

まあ、「活字離れ」になってはいないのでよしとしようか。

SNSには必要以上に自我が拡大される装置が隠されている。

自尊感情や自己肯定感を上げることもあれば下げることもある。

頭痛、肩こり、寝不足、集中力欠如が続き、ご機嫌な状態が続かない、という学生にはスマホ生活を改めるように言っている。

多くの学生は、バイト、部活・サークル、スマホ閲覧(動画、SNS、ゲームなど)に費やす時間が思いのほか多い。

読書時間を生み出すには、意識的に余白のある生活を送るよう心がけないと難しい。

私自身、多読ではあるけれど“積ん読”も多い。

小説は好きなので月に数冊は読んでいる。

仕事に直結する専門書は知的に渇望していないと食指が動かないし、上の空で読み、ページを行きつ戻りつしながら読んでいる。

仕事が嫌いなのか?

自ら意識的に時間を生み出すようにはしている。

仕事柄、ほぼ毎日、何かを読んでいるけれど、一点集中の一冊完読は減っている。

部分読みして必要な箇所を抽出し、授業で引用・解説したりしているので本は付箋だらけだ。

大学の図書館で手当たり次第に借りたり、Amazonやflierinc.com、bookvinegar.jpなどの書評を見て研究費で買うこともある。

実際のところ、自分と他人の感性には大きな隔たりがあると感じることが多い。

啓発本の類に啓発されて行動を起こしたことはない。
もうそういう年齢ではないのか。

いくら優れた内容であっても、胆力に乏しいと再現できないと感じている。

刺激的、魅惑的なタイトルの本は世の中にたくさんある。

しかし、読み手がどこに問題意識を置いているか、目的をどこに設定しているかで初めて意味あるものになる。

私の場合、武道に根ざした身体トレーニングで適度な緊張と弛緩を続けることで心身が整うようにできているので、まずそれが先だ。

それにしても近頃は「感性の劣化」が早い。

自分の感性と本に書かれている内容や考え方が合致していても、時間経過とともにその感覚が消失してしまうのだ。

「不易と流行」でいえば、流行の部分は時代の変化が激しい分、劣化のスピードも早いのかもしれない。

感覚インフレーションが起これば「よし、頑張って稼がないと(教養を身に付けないと)」となり読書にも身が入るだろう。

積ん読していた本を暇なときに手に取ってサーッと目を通してみても、「どうしてこんなものを選んだのだ?」と思ってしまう。

その時々の話題性や意味不明なノリで買ったのかもしれない。

査読やエビデンスが不十分な個人の思い込みによる似非研究書・専門書,ハウツーものが氾濫しているというのも災いしているかもしれない。

電子書籍を読むこともあるけど、そもそもザッピング読書(流し読み、拾い読み)する場合は、結局、紙媒体のほうが扱いやすいと感じている。

手持ちの専門書は学生にプレゼントするようにしている。

本はいろんな人に読まれてこそ価値がある。

積ん読のままでは不良債権化するだけだ。
旬のものほど劣化は早い。

本は固定資産ではなく流動資産と捉えて、じゃんじゃん放出する。

少なくとも私の場合、「いつか読む」「あとで読む」は妄言に過ぎず、冷静に考えれば「いつまで経っても読まない」「死後に誰かの手で処分される」というオチになりそうだ。

ただし、時代を超えて読み継がれるものには真実が宿っている、という考えに変わりはない。

そういう名書・名作は手元に置いておく。

じゃあ、それを何度も繰り返し読むかといえば読まないことのほうが多い。

悩ましい問題だ。
でも、確実に時が解決してくれる。

息子達が私の遺品を整理する時が最大のチャンス。

遺言書 息子達へ
「私の書籍はヒモで縛って古紙回収の日に出しなさい」