健やかな一服
『蕎麦湯が来ない』を読んだ。
この本は、せきしろさんと又吉直樹さんによる404句の自由律俳句と50篇の散文が収録された自由律俳句集である。
僕は、この本を迷いなくお勧めしたい。読み終わった感想を以下に載せるので、何かの参考になれば幸いである。
いや、僕の感想など何の参考にもならないかもしれない。何に影響受けて生きるかはそれぞれの自由。僕たちは何者からも自由になれる存在であるということを、念頭に置いてほしい。
『蕎麦湯が来ない』を読んで
読み終わった直後のこの感覚は、一体何だろうか。いま僕は、健やかな一服を終えた後のような気持ちでいる。
日常を切り取っていながら、ご両人の紡ぐ世界はどこか非日常性を孕んでいる。この非日常性とは、ご両人の尋常ならざる自意識の拗らせが生み出している。
日々の生活を送っていたら見逃されてしかるべき些細な場面、その一瞬の場面を丁寧に掬い上げる。掬い上げたものを慎重に濾過すると、心の揺らぎが見えてくる。その慎重な濾過の手順と作法を、ご両人は知っている。
僕たち読者は、日常だと思ってそこに足を踏み入れる。すると、知らず知らずのうちに非日常空間へと引きずり込まれている。ご両人が紡いだ日常的非日常空間は独特な速度を持っており、そこで生じる前後不覚な揺らぎは非常に安らかである。僕たちはそれが病みつきになり、そこにずっと居座る。この本は、一度読んだら手放せない。
読み終わった瞬間、非日常から日常への流れるような橋渡しが行われていた。没頭していた世界からまたいつも通りの日常に、スムーズにバトンが繋がれていた。本を閉じるというはっきりとした動作を伴っていたのにも関わらず、その二つの世界の境界線は曖昧にぼやけていた。
非日常がフェードアウトし、日常がフェードインしてきた感覚だった。既に始まっている日常はいつも通りで、そこに驚きは少ない。しかし、以前と違って読後の日常は「気づき」に溢れている。その「気づき」を与えてくれたのが、この本である。
そして今、僕の頭の中にはandymoriの『1984』が流れている。それがなぜかはこの本を読んでみないとわからないし、読んでもわからないかもしれない。
大きくて安い水