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僕は誰かの言葉なんかに殺されたくない。

作家活動をしていると、自分の作品に対する感想が気になるもの。

最も手軽なのは、検索サイトやSNSでのエゴサーチ。
自分の名前や作品名を打ち込んで、評判を検索してみる。

僕なんか、まだまだ知る人ぞ知る一端の作家。
それでも、
「鈴掛真さんの本がとても良かった」
「鈴掛真さんの言葉に救われた」
「鈴掛真さん、ほんと好き」
まさか著者本人が見ているとは思っていない読者のみなさんが、称賛を書き込んでくれている。
ああ、書いて良かった、作家の仕事を続けてきて良かった、今日まで生きてきて本当に良かった、と思う。

けれど、自分に向けられた心ない言葉を見つけてしまうこともある。

「鈴掛真マジで消えてほしい」

100の称賛を受けても、たった1つの誹謗中傷に、生きる気力のすべてを持っていかれてしまう。
そうして負った傷を癒すために、またエゴサーチする。
いくつかの称賛に気分を良くしていると、また誹謗中傷を1つ見つけて、死にたくなる。
その繰り返し。

褒め言葉に慣れてくると、ちょっとやそっとの称賛では満足できなくなってくる。
もっと褒められたい。
誰かから必要とされたい。
今のがんばりに意味があるって納得したい。
エゴサーチは、承認欲求を満たす麻薬みたいなものだと思う。


数年前Twitterで、年下の女性の作家にひどく汚い言葉で罵られたことがある。
それもエゴサーチで見つけてしまった。
どこの誰かも知らなかったし、会ったこともなかったのに。
とはいえ、悪評も注目されている証拠。
「ありがとうございます」とリプライを送ったら、無言でブロックされた。

最近、業界で彼女の評価が上がってきているらしいのだけど、この先どんなに彼女が評価されたとしても、僕の中では「汚い言葉を吐く人」でしかないし、そのときのスクリーンショットは今でも保存してある。

人を罵ったって、何の得にもならない。
ただ自分の人徳や、品性や、評判を下げるだけだ。
もしも、優越感を得るために他人を罵倒している人がいたら、それはただの錯覚で、代わりに大切なものをいくつも失っていることに早く気づいた方がいい。


かと思えば、以前2ちゃんねる(現5ちゃんねる)に、
「鈴掛真ってイケメンとか言われてるけど、あのひと歯並びガタガタだぞ」
と書き込まれたことがある。
鏡を見たままの事実を伝えると、僕は歯並びの良さだけが取り柄でここまでやってきたくらい生まれつき歯並びが良い。
僕の何を見て歯並びがガタガタだなんて言えたんだろう。
人違いだったのかな。
アンチだとしても、せめて嘘はやめてほしい。

そこで、気づいた。

誹謗中傷に、正当性なんて全くない。
言葉を真に受けるだけ無駄なのだ。

世の中には、「好かれている人が嫌いな人」がいる。
「賛同を得ている人を否定したい人」がいる。
仕事をがんばって、称賛されるほど、彼らの標的になる。
彼らが攻撃する対象は、実は誰でも良かったりする。
だからどんな汚い言葉も躊躇なく使えるし、嘘であっても気にしないし、しばらく経てば攻撃していたことすら忘れてしまう。
まるで道端に吐き捨てられたガムみたいに。
そんな言葉に傷ついたり、楽しい一日をブルーにされたり、死にたくなったりするなんて、悔しすぎる。


他人の言葉は、薬にもなり、毒にもなる。
良質な食材を選ぶように、見聞きする言葉も選んでいいはず。
そうして、自分の心と体は、自分で守らなくちゃ。

僕は誰の言葉にも殺されたくない。
そして、もう誰にも死んでほしくない、と思う。


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