怒りのコメントについて考える
Noteを始める前、しばらくの間ブログを書いていた。イラストと4コマ漫画しか載せていないブログ。
あるとき、「子供が幼稚園に行っていない間にインスタントラーメンを食べてやった!ひひひ」みたいな4コマ漫画をかいた。
そしたら、それにコメントが入った。「美味しい食べ物を子供とシェアしないなんて!ひどい!子供がかわいそう!」といったなコメントだった。
最初にそのコメントを読んで思ったのは、「おお、こんな誰が書いてるかも分からないブログに対して反応があるんだ!」という驚き。
次にあったのは「おお!そんな読み方をする人がいるんだ!」という驚きだった。そうか、子どもにインスタントラーメンを分けてあげないというのは、意地悪なのかと。
それに対して、どんな返事をしようかなと考えてるうちに、面倒くさくなったのを覚えている。そのうちブログも止めてしまったし。
子育て系のブログを書いている人のところには、こういった「どうしてそんなことをしたの?/しなかったの?」という非難のコメントがたくさん入っている。
「子育てと学歴のことだけは、どんな人でもコメントができる。」みたいなのをどこかで読んだけど、まさにその通りなんだろう。
どんな人にでも子供時代があり、学生生活があった。そこには、明るい面もあれば暗い面もある。
東大に子供を入れることが至上としている人もいれば、田舎で自然に囲まれていることが最高と思っている人もいるだろうし。「価値観が違います」と、一言で言ってしまえばそれだけなんだけど。
私自身は、人のブログなりnoteなりを読んで怒りを感じるようなことはあまりない。webの記事だとたまに、怒りを感じる内容のことはある。
この違いはなんなんだろう?感想とニュースの差?
誰かの感想に対しては、「そう思われたんですね」としか言いようがないから、怒りがわかない。でも、ニュースには、なんらかの事実が入っているから怒りがわく。のだろうか?知らんけど。
例えば、漫画で自分が思っていたようなエンディングにならなかったらどう思うだろう?と考える。「こんな終わらせかたしやがって!怒!」と怒りのコメントを送るか。
作品とキャラに入り込んで、「この終わりは許せない!」みたいな気持ちになったことがないから分からないんだけど。
「え、これで終わり・・」となったことはある。風呂敷たたまなかった系の。もし、許せない気持ちになったら。自分ならどうするだろう?自分の頭の中で別のエンディングを作るかもしれない。同人誌描くとか。
で、話はインスタントラーメンに戻るけど。
例えば、イタリア人に(わざわざ日本から重い思いをしながら、持って帰った虎屋の)羊羹の味見をさせたいか?と聞かれたら答えは「ノー」だ。私が喜ぶほど喜ばないからだ。
私の経験から、イタリア人の大半は甘く煮た小豆の良さがわからない。
食べさせても「うーん、微妙。。」な感じで終わることがほとんどだ。せっかく持って帰った貴重な美味しいものは、その美味しさをわかる人と分け合いたい。だから、喜ばないことがほぼわかっている人、この場合はイタリア人、とは、茹でた小豆を分け合いたくない。
では、子供はどうなのか。子供はインスタントラーメンが大好きだ。食べさせたら、美味しいって喜ぶ。
じゃあ、日本からわざわざ持って帰ったラーメンを食べさせてあげればいいのか?というと、そうはいかないのだ。こどもは、、、インスタントラーメンなら何でも良いのだ。私はなんでもはよくない。
子供はイタリアで売っているインスタントラーメンでも普通に喜ぶ。だったら、わざわざ日本から持って帰った、私が好きなメーカーのインスタントラーメンを分けなくても、みんなが幸せになれる方法あるるじゃん。。。
そうか、私がケチなだけなんだな・・・とここまで書いて気づいた。残念な結果。
まとめ、自分の文章をどこかで全く知らない人が読んでるっていうのを実感した時って、軽く感動しますよね。へー、本当に読んでる人いるんだ。的な。ありませんか?
おわり