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【SUZU Story vol.5】 幼少期から家族で通っていた居酒屋へ就職した僕について : 田辺光輝

【SUZU Story】は、SUZU GROUPのスタッフがそれぞれの考えやお店での出来事、新潟への想いを語る企画。
Vol,5では、長岡の店舗を支えるマネージャーの田辺が、SUZUとの付き合いが長いことから『自身の人生について』を綴りました。


人は一人一人違う性格、顔をしている。僕もこの世に一人しかいない。そんな自分の人生について考えてみた 。

平成五年十一月八日に僕は生まれた。
現在は三十才。振り返ってみよう。

今の職場との出会いは、記憶に残る所では小学生の時だった。
当時、養老乃瀧という居酒屋が歩いてすぐ近くの所にあり家族でよく利用していた。

子供ながらにいつも頼む料理は決まっていた。
【焼き鳥丼】【アサリバター】【海老の塩焼き】などなど...おつまみが小さい頃から大好きだった。

僕の両親は大の酒飲み。
それはそれは、両親が頼んだ料理をつまみ食い。美味かった...あの時の味が蘇る。

そのおかげで頼む料理は決まり、体重は小学3年生で35キロ。小学生のなかでは大食いに分類されていた。

当時の店長さん(現SUZU GROUP会長)との絡み合いも好きだった。
「おう!また来たか!いっぱい食べて呑んで!」って、子供ながらに嬉しかった。

そんな僕も中学生にあがり、学校は東北中学校。
中学生になっても変わらずに家族で養老乃瀧に通っていたのである。

中学生になると自分の中で、居酒屋の楽しみ方ができてきた。それは、料理の食べる順番だ!
自分の中で完成しており、両親には"いつもの順番!"と頼んでいた。

養老乃瀧に行くよ!って言う日がとても楽しみだった。

相変わらず店長と絡み合いをしていると、いつしか帰り際に「おい!高校生になったら相撲部か、ウチに働きに来い!」と顔を合わせる度に言われるようになった。(相撲部は僕がぽっちゃり体系だったからである。ちなみに中学生の時は卓球部に入った。)

月日が経ち、高校入試の日がやってくる。

僕は勉強が全くできない。正直、入れる高校もほとんどない。
担任の先生から唯一入れるとしたら中越高校。家が近い事も考えてくれ、中越高校ならテストに面接がある。その面接に100%の力を振り絞っていけと言われその結果、なんとか合格することができた。

当時の記憶では、いつも行っていた居酒屋は【養老乃瀧】ではなく、【俺っちの炙屋ちぃぼう】と名前が変わっていて、その頃は家族で行く事もかなり少なくなっていた。

当時の入り口。ちなみに「ちぃぼう」は会長のあだ名です。

ついに高校生活。部活動には入らなかったが、友達が増えた。

一年生の時は遊びに遊び、二年生になり、僕もアルバイトをしたいと思った。
周りの友達はスーパーの品出しやレジ業務をしている子が多く、そんな話を聞いていると僕も「レジ打ちやってみたい」と思い、初めに【パルス】に面接を受けにいった。
高校入試の際に鍛えられた面接で、余裕で行けるだろうと思い望んだ結果・・・まさかのテストも用意されてたのである。

これは、ダメだ・・・

僕は不合格だった。
周りの友達も余裕余裕って言って受かっている。正直なめていた。

やりたい事がなかった僕は、ふと、そう言えば前の養老乃瀧の店長から、高校生になったらアルバイトしに来いって言われてたなぁーと思い出して、「今でもいるかな」と思い電話をかけた。

面接日が決まりいざ行くと、あの前の店長はいなくて、新しい店長(現在の代表取締役)。頭にタオル、深く腰パンの人が来た。

緊張感が少しほぐれ、いきなり、「いつから入れる?じゃあこの日の18時からね〜」っと、5分もしないで面接に受かった。びっくりした。

高校生二年、ここからがアルバイトスタート。

勉強もできない自分でも大丈夫かと不安が多かった初日、右も左も分からないままドリンク作成の補助と洗い物を頼まれた。
一緒にいた先輩が付き添いで教えてくれていた。

初めて入る厨房。

凄く暑かった。

水を飲んでもいいかも分からない。

汗だくでの営業。

僕は終わり際にやらかした。

グラスを2個割ってしまい破片で指を切り、血がでたのを見て貧血で倒れてしまった。
ソファーで休憩しててと言われ、そのまま今日は終わりねと言われ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

その後帰ろうとしたら面接をしてくれた店長が「賄い食うか?」と言ってくれ、「食います!」と言ったら「えぇー」とびっくりした顔で笑っていた。

その日の賄いは今でも覚えています。
刺身の端っこを寄せ集めた海鮮丼でした。生まれてから食べた中で、一番うまい海鮮丼だったなぁ。

仕事中は活気があって、先輩方は厳しい人達。

高校時代の僕の楽しみは"賄い"。
仕事が終わって食べてる時の先輩方は、とても優しく声を掛けてくれたのが楽しかった。

高校生のアルバイトできる時間は22時まで。
その時は残った人達がその後どんな仕事をしているかとても気になっていた。

そしてあっという間に高校生活が終わりを迎えようとしていた。
就職活動をしていた時にも本気でやりたい仕事がなく、それを店長にも相談したところ、「料理の専門学校に通いながらうちでまだアルバイトを続けたらどうだ?」と言われた。

そうしたら22時以降の仕事が見れる!!

すぐ両親に相談したが、うちには専門学校に通えるほど裕福じゃないから、就職してくれと言われた。悔みに悔やんだ。

名案は却下され、そうして出した結果が、そのまま【ちぃぼう】に就職しようという決断だった。

店長に頼んだところ・・「おっけい」と快く返事をくれた。

18才、社会人スタート。

初めの頃は、アルバイトから社員になったという実感が全然なかった。
高校生活の終わり際までアルバイトをしていたからである。

変わった点と言えば、出勤時間。気になっていた22時以降も見れた。
まだ高校生活の余韻もあり、慣れてはいなかったがなんとかやっていけた。

僕のポジションは主にキッチン。少し経つと「ホールもやってみる?」と言われ、やりたいですと返事をした。
キッチンだと自分が作る・盛り付けるまでの仕事なので、実際にどういうふうにお客さんに提供して食べられてるのか、気になっていたからである。

勉強はできないがお客さんと話すのは得意な方だった。
料理を提供して説明した後の世間話が好きだった。
忙しい時間対は上司に話し長すぎ!と怒られる事もあった。

イベントでの一コマ。(ちゃんと働いています)

時が流れていく中で嬉しい出来事が・・・

それはこの前話したお客さんがまた来てくれた、ということ。
凄く嬉しかった。しかも会いに来たよ〜って。

居酒屋って普通飲みにくる所って思っていたからだ。
その頃はその嬉しさを増やしたくなり、ホールに出た日はとにかくお客さんと話を重ねていました。

慣れてきた頃に店舗の異動が決まり、22才の時は【越後の台所 すずきち】で働いていた。

ちなみにこれは21歳の時。
体重全盛期、87kgの時です(笑)

すずきちはオープンキッチン。自分で盛り付けた料理が目の前で見れる。
ちぃぼうでは見れなかったのが、すずきちでは常に見る事ができる。また違う楽しみが増えたように感じた。

その1年後には店長に任命され、一生懸命日々を送っていました。

店長時代は色んな難題にぶつかった。
社員の時はあまり考えられていなかった売上、原価、人件費の管理、スタッフの採用と教育、おすすめ料理やコース料理の構成。

初めは数字を合わせることだけを考えて、人件費が高ければ自分が多く出勤することしかできず、料理も過去にやった料理の改良など、新しいものを生み出す事がなかなかできなかった。

改めて思うと店長って凄いんだなと実感しつつも、仕事って大変だけど、やりがいあって楽しいなって、この頃は思っていました。

26才の時に【ちぃぼう】に戻ってきたと同時に、その時はちぃぼうとすずきちの両方の統括店長を任せられました。

ここで覚えたことは、自分がいないお店でも管理をすること。
正直頭の弱い自分には難しく、連絡のコミニュケーションだけではうまくできず当時は2店舗を交互に入っていました(笑)。

がむしゃらにやっていましたが何とか、何とかやれていた気がします(笑)。

店舗に立つことも。
ちぃぼうでは、ラインナップしている100種類ほどある日本酒について、お客様にしっかり伝えます。

その2年後には現在の役職である長岡エリアマネージャーに。そこから2年が経ち、今の自分がいます。

人生という壮大なテーマをもらって書き始めましたが、書いてある内容がぐちゃぐちゃな気がします(笑)

何を書きたかったかというと、、、

小さい頃から今まで利用してきた【養老乃瀧】。

を通じて出会えた【ちぃぼう】と【すずきち】というお店。

そこで楽しかった、嬉しかった事を、大人になった自分が誰かにしてあげる立場になれたことが、僕の人生かなと思います。

そして、自分がそうすることでいつか、常連の家族のお客さんから同じような志を持ってくれる人が出てくることを、密かに夢みています。

田辺 光輝


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