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ハラスメントに思う事。
みなさん、こんにちは。
今日は、ハラスメントについて思うことを書いてみたいと思います。
ハラスメントとは、いわゆる嫌がらせの事全般を指していうようです。
そのため、パワーハラスメント→パワハラに始まって、カスターマーハラスメント→カスハラ、マタニティハラスメント→マタハラなどなど、次々と様々なハラスメントが取り上げられています。
時代が違うといえば、それまでですが、多様化、多様性を謳い、一方で実は個人の自由が奪われている可能性があって、それに気が付いていない人も多くいるのではないかと考えたわけです。
菅野仁氏の「友だち幻想」という本があります。
人と人とのつながりについて、書かれたものです。
その中で、
ルールを大切にするという発想は、規則を増やしたり、自由の幅を少なくする方向にどうしても考えられてしまうのですが、私が言いたいことはそういうことではありません。むしろ逆なのです。ルールというものは、できるだけ多くの人にできるだけ多くの自由を保障するために必要なものなのです。(菅野仁「友だち幻想」より引用)
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この本を読み返していて、ふと思ったのが、最近のハラスメントって、誰のため、何のために呼称が付けられ、皆本当に自由を謳歌できているのだろうかということです。
少し、自分が困った事があれば、本当は我慢できるはずなのに、〇〇ハラスメントという呼称をつけて、自分の権利を主張する。
困りごとは多少和らいだり、少なくなるのかもしれませんが、世の中の人がちょっと嫌だなということを、〇〇ハラスメントで解決するのではなく、きちんと言葉で、相手や周囲に説明し、どのようにしたいのか、どうするのが相手や周囲が納得するのかということを話し合うことはできないものかと、思うのでした。
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今は、企業勤めでもないし、どこかのコミュニティに所属しているわけではないので、私自身は、新聞やニュースで見聞きして、世の中の様子を探っているわけですが、私にとっては、不思議なことも起きるものだと感じてしまうのです。
ちょっと、一言、「ごめんね」とか、「ありがとう」も絵文字で携帯に返ってくると、かなり引いてしまいます。
言葉+絵文字はわかりますけれどね。
他人からみれば、ちょっとわがままという程度が〇〇ハラスメントということで、発言者がさも偉いと勘違いするのか、本当に困っているのか、とてもあいまいです。
先ほどの引用から考えると、ルールを増やして、結局は大衆の自由を束縛しているのではないかと思ったのです。
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みなさんは、どのように感じていますか?あるいは、考えていますか?
ご意見募集いたします。
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