「ママは大きくなったら何になりたい?」照れずに答えるわたしになりたい。
「ママは大きくなったら、何になりたい?おれはね、大工さんになるんだ!」
小学一年生の息子が、クリクリの目で聞いてくる。歯抜けが目立つ小学生特有の口から飛び出す質問は、忖度も、遠慮もなく、ただただ素直。
以前のわたしなら、そのストレートさを受け止められなかっただろう。言葉に詰まっていただろう。
もしくは、なんだろうねぇって、はぐらかしてたと思う。
でも今は、照れ臭さを隠しながらこう返してる。
「ママはね、書く人になるんだ」
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ライターではなく「書く人」と言うのは、その言葉が今のわたしにしっくりくるからだ。
理由は二つある。
ポジティブな理由としては、「書く」ことで、自分の立ち位置や感情を再確認してるから。書く人と素直に言ってしまった方が、自分に無理がない。
こうしてnoteを書くのも、自分の本音や内側を表現する大事な行為。
日常的に言葉をつづるようになってからは、もはや精神安定剤のように、気持ちを穏やかにする手段の一つになっている。
わたしは、こんな風に感じていたんだ。
こうして欲しかったんだ。
後追いにはなるけれど、そこでやっと消化できることが、増えてきた。そんな風に、ちょっと不器用な自分と対話するのが、「書く」こと。
書くのは自由。でもこうして外部に発信する以上は、責任を伴う。
安らぎと緊張感が混在するこの感覚が、好きなのだと思う。
ライターになりたいと言えないネガティブな理由としては、恥ずかしさがあるのだと思う。
書くことで生計を立てられたらって思う。
「仕事ですか、ライターやってます」って、言えたらかっこいいよなーって、憧れを抱いてしまう。
だけど、それが職業になることへの、不安がないわけではない。
未知の領域に足を踏み入れるのは、やっぱり怖い。
だからライターになりたいって言えずに、書く人ってぼかしているのかもしれない。
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「書く」と共に生きる人たちのコミュニティsentenceに入会している。書くことを本業にしている方々の執筆記事の裏側を知ることができたり、インタビュー記事の作り方や、ymo会など、魅力的なイベントが毎月開催されている。
先日、sentenceのラジオを聞いた。
(この記事の下の方にリンクがあります。どなたでも聞けます)
フリーライターとして活躍されている高島知子さんがゲスト。
どのお話も興味深く聞いたのだけど、印象に残ったのは
「フリーランスが性に合う理由」だった。
会社員として、ライティングや編集に関わると、書いた原稿の行く末まで見届けることができる。ひとりでは抱えきれなくなった時、誰かに頼ることができる。
一方、フリーランスだとそうはいかない。
引き受けたからには、最後まで見届けなくてはいけない。
苦しくても、いやでも、責任は自分にある。
それでも、価値観に反することや、気が進まないことは引き受けなくてもいい。選択権は自分にある。自分にウソをつく頻度や、自分自身へのストレスは減りそう。
わたしはどうなりたいんだろう。
このラジオを聞いた後に、改めて考えた。
すぐに答えは出た。
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わたしは書くことを、自分の軸にしたい。生業にしたい。
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そもそも、自分の頭の整理として、想いを吐き出す手段として、書くことを始めたんだ。
表現したいものは、自分の内側にある。
と同時に、自分の外側、つまり他の人の考えも知りたい。
だから、対話に興味がある。話すことで生まれる変化を残したい。
その時間が起爆剤となって、移り変わる言葉のやりとりを、文章で切り取れたらって思ってる。
流れの、一部分を切り取る。
ある意味、暴力的で、恣意的で、主観が入りまくりの行為だけど、その切り取った何かには、意味があると思ってる。意味がないっていう、意味があるかもしれない。
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9月の半ばに、言語化カフェのモニターさんとお話をすることになった。
以前の職場の後輩である彼女は、noteで書いた言語化カフェの記事を読んで、誰よりも早く連絡をくれた。
CHIHIRO さんに、ぜひ話を聞いて欲しいんです。
将来のアウトプットをさせてほしいんです。
そう、メッセージをくれた。
感激と同時に、不安もつきまとう。
わたしには何もできないかもしれないって。
だけど、それでいいのだ。
わたしは話を聴く。場を共有する。
その時間の、ほんのわずかなエッセンスを切り取って、書くことで彼女に伝える。
答えを出すのは、わたしじゃない。
ただ、あなたの想いを言語化する、そのほんのわずかな手伝いをするだけ。
ただ、書く人として、目の前で話に耳を傾ける。
今度息子に聞かれたら、答えられるだろうか。
恥ずかしさを取っ払って、言えるだろうか。
「ママはライターになるんだ。ライターってね、書く人のことだよ」って。