
ややこしい生命体:我々の話
わたしの友達には、生きることにとりわけ一生懸命でいる人と、生まれてきちゃったから生きている人 の2種類がいます。間(あいだ)の人もいるけど、あんまり多くないです。わたしが両極端の性質を持っているから、近い人が集まりやすい環境にあるのかなと思っています。
「動物と同じで生を受けてしまっただけ」と言われると私は否定のすべを持ちません。本当にその通りだと思うからです。これはあまりインターネットで言うべきでない事柄だと思って 頻繁に言葉にしてはいませんが、人間って生物的なステータス(結婚とか、貞操とか、いや主に貞操です。セックスしたかしてないかでマウントを取る人がいるのが1番分かりやすい例だと思ってる)を重要視する風潮をもちながら、自分たちは文化的な__動物とは違うものなのだ と言い張っているの変だなと思います。
言葉にしないでしょ。その、なんでセックスしてたら偉いかとか、恋人がいたら偉いかとか、結婚した方が幸せかとか。当然のもののようにしてそこにあって、その時点で私たちは紛れもなく動物であるのに、文化的であろうとする歪な生き物。
だから、生まれてしまって、死ぬまでを生きている と言われたら否定できない。でもわたし自身の、文化的な感情の部分としては、友達にそう言われてしまうと少しさみしい気持ちにはなります。それって今話しているこの瞬間も無意味だって言われてるみたいじゃん。いや確かに無意味なのかもしれないけどさ、宇宙規模で見たら。事実として理解しているつもりではあるんだけど。
生きる意味とか頑張る理由っていうしゃらくさいものを追いかけていきたくなってしまうのが文化的な自分で、わたしは頑張っている人を見ているとすごくかっこいいなって思うから、一生懸命ベースで生きてはいます。
いずれ死ぬのにね。つくづく不思議に感じるのですが結局死ぬので、今頑張って絵や歌みたいな発信をしていても、意味なんてないのかもしれないんですよね。誰かの糧になったとて、その誰かも死ぬので、何が残るのかを考えだしたら「何も残らない」になってしまいます。途中で考えるのをやめることで私たちは、死ぬまでの恐怖から逃げながら生きています。前に心理学勉強してたときに、人間はそれ考えだしたら頭おかしくなってしまうから逃避してる っていうの読んだことある。
過去や未来に引っ張られると辛くなってしまうから「今」を生きてる。わたし後先のこと考えてなさすぎて、将来のこともうちょっと考えたほうがいいよ って周りの人には言われてるんですけど、わたしの両極端のひとつの端に「生まれてきちゃったから生きている」があって、そっちは本能に従って生きているから将来のことがどうでもいいんだよな(反省はしています)。
将来のこと考えたり、それで不安になったりできる時点で、みんなちゃんと人間だなって思うよ。
「人間」の範囲の中で、格好よく、生きてて良かった と思える瞬間や 感情を動かせる出来事を味わって、喜怒哀楽を生き切ってから死ぬこと がしたい。それが私の持っている「一生懸命に生きたい」ほうの端っこ。
一方で、「人間」の範囲を出ると、それらは全部無意味になるので 何やってんだろ自分。虚しいわね。これが「生まれてきちゃったから生きてる」ほうの端っこ。
生まれてきちゃったから生きている ことは分かっているけれども、一生懸命に生きたい って思ってしまう自分も確かにいて、無意味かもしれない毎日の一生懸命を 諦めきれないから続けちゃってここまで来た。
それが今の自分って感じです。
どっちに足をつけるか、決め切らないでもいいと思いますね。だって星空を綺麗だと思ったり、誰かを大切な存在と思ったり、こうして文章を書いたりすることが、無意味かどうかを決めるのは人間でしょ。
宇宙の範囲で見たら無意味でも、人間の範囲で見たら意味のあること を、無意味とするか、意味があるとするか っていう考え方の違いなのかもしれないな〜。最近のみんなの日々は輝いてますか?それとも生まれてきちゃったから時間を潰して今日が終わってますか?結論、どっちもアリなのかもしれないですね
読んでくださってありがとうございました!
良ければスキとフォロー押していってくれると嬉しいです✉️