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#200:母の魂

noteで200記事目。まだまだ稚拙な文章だが、たまには大事なことを書くために日頃の習作があると思うので、少し書いてみる。

※2000字を超える長文です。また人の死に関しての記載があります。時間のない人、心が弱っている方は、ぜひスキップしてください。

母の病気

薬剤師として長年元気に働いてきた母は社交的で友人が多く、その友人と旅行に出かけるのが趣味のアクティブな人だった。

心臓や血管などの手術を何度かしている父とは対照的に、身体が丈夫な母が病気に伏せたのを子供として見た記憶はほとんどなかった。

なので、母が血液の癌になり、抗がん剤治療で入院と聞いた時は半信半疑だった。

治療が終わって退院した時には、うちの息子(母からは孫)の小学校入学祝いと同時に母の快気祝いをした。その時に満開の桜を観ながら心のどこかで「ほらやっぱり大丈夫でしょ。」と思っている自分がいた。

しかし、再発を2度ほど繰り返しては入院し、徐々に弱っていく母を見ると、これは一筋縄ではいかない病なんだと思い知らされた。

いや、母と父は西宮(兵庫県)に住んでいて、我々は東京から様子を聞いているだけ。たまに実家にも訪れたが数えるほどである。恐らく、我々の思う何倍も当人である母が打ちのめされていたことは想像にかたくない。

ただあまり弱音をたくさん聞いた覚えがない。

まだ実家に私が暮らしていた頃は、嫁姑問題を父が完全スルーを決め込んでいたせいで、当時少しませた小学校高学年の長男である私は母の愚痴を一身に受け止めていた記憶はあるのに。

父が母の弱音を受け止めていたのだろうか。

それともあの実家の頃の愚痴と同じように、私はただ相槌を打つだけで、母の弱音に対して、真剣に耳を澄ませていなかったのだろうか。

もう今となっては分からない。

オーストラリア旅行

そんな中、母の体調が落ち着いていた冬休みに父母と我が家3人(息子、妻、私)という3世代で、念願のオーストラリア旅行に行った。

東京に住む我々は羽田を出発し、関西在住の父母と関空で待ち合わせ。そこから国際線に乗りオーストラリアのケアンズに向かった飛行機は天候の悪化で、シドニーに行き先が変わった。

半日だけの偶然のシドニー観光。

最高の天気に風光明媚なシドニーの街。観覧船に乗って橋の下を通り過ぎると、オペラハウスが現れて、我々は皆あっさりと歓声を上げた。

オペラハウスが見えてきた!

初日に偶然訪れたシドニーが奇しくもこの旅のハイライトだった。ケアンズも自然溢れる興味深い観光地だったが、母も少しずつ旅の疲れが出て辛そうにしていた。

とはいえ、結果的にこの旅に思い切って行ったことは本当に良い判断だった。最期まで何度も母とシドニーの話をしたし、今振り返ってもあの旅の記憶は家族の中で鮮明に残っている。

この優れた判断は私ではなく妻の提案だった。今でも心から妻には感謝している。

最期に向けた準備

年末のオーストラリア旅行から僅か2か月足らずで、また再発して入院することになった母。

心のどこかでは、毎回もう転移はなく完全に癌を克服してるはずと楽観的な解釈をしていた。

しかし、今回の入院はどうも様子がおかしい。いつもの抗がん剤の治療計画が出ないし、病院の先生がご家族を呼んで話をするとのこと。

この期に及んで、私は事態を把握しきれてなかったのだが、一方で母は完全に自覚していた。

この鈍さは父親譲りだと人のせいにしても仕方ないのだが、確かに父と私だけぼんやりして、ある程度事態を飲み込んでいた母と弟は自宅に帰る準備を始めていた。

死を覚悟した母は、病院ではなく、自宅で終末医療を受けることを選んだ。不幸中の幸いというべきか、自宅を訪問してくれる終末医療専門の先生を入院していた病院から紹介があった。

自宅に戻ってすぐの比較的元気な母は、写真が趣味の叔父(母からは弟)を自宅に呼び、お気に入りの服を着て最高の笑顔で写真を撮った。

あまりに即座の行動で皆驚いたが、それは自らの遺影の準備であった。

愚痴を聞いてたくさん話し相手になった自分が1番母のことを知っているかのように錯覚していたのだが、母がこんなにしなやかで強い人だとは亡くなる直前まで知らなかった。

身内として言うのもおこがましいとは思うが、立派な最期だった。母の友人達、多くの親戚も死期を迎えたとは思えない、溌剌とした笑顔の遺影に向かってそのようなことを言っていた。

母の最期

その時期はちょうど自分の仕事が落ち着いていたこともあり、1週間ほど会社を休んで西宮の実家でゆっくり母と過ごすことができた。

春休みで息子も連れて、同時に休みが取れた妻も来たのでそれはまるでただの帰省のように。

その穏やかな3月も過ぎて、4月になってから、どんどんと母の体調は悪化していく。

毎週末帰省して顔を出したが、週を追うごとに食べられるものが少なくなって、少しずつ起き上がるのも辛くなる様子。

身体が熱くてアイスクリームしか食べられず、ずっと寝て過ごすと身体をだるくて仕方ない。

もう病の勢いに抗えず、確実に母の身体は死を迎えるのだと本人も周りの家族も分かった。

そして母は70歳になる手前、元号が令和になる直前の4月に亡くなった。

母の身体と魂

スピリチュアルとか、何かの信仰があるわけではないのだが、母の死をつぶさに観察する中で人間は身体と何かそれ以外のもので出来ていることを体感した。

明らかに身体が役目を終えようとしている。

そうすると、身体はただの容れ物だと気付く。持て余す身体に対して苦しむ母の中のものは、もう身体を必要としていない。

その中のものを何と呼ぶのか。
身体とともにしか居られない意識のこと。

例えば、それを「魂」と呼んでみる。

話が飛んで恐縮だが、今回の話を書くきっかけとなった曲がある。最近よく聴いている春野の「Like a Seraph」(↓)である。

いつかこの身体から
ただ抜けていく魂のことなんて
今は知らなくていい
この身ひとつ預けて共に逃げよう

春野「Like a Seraph」のサビ

このサビの歌詞を聴いて、身体から抜けていく魂のフレーズで、ふと母のことを思い出した。



もうその身体に居ても辛いだけになった母の魂が、そこからうまく抜け出せた時には悲しいと同時にほっと安心もした。

「よく頑張ったな。辛かったね。」

そう声をかけるしかなかった。

母はもっと旅行するつもりだったと思うとやるせないし、母が居ないと何ひとつできない父を我々の元に置いていくなんて「そんな殺生な」とも思った。

しかし、そんな父が今マイペースに一人暮らしを満喫してるから人生とは予想がつかない。

母は最期の生き様を通して色々と教えくれた。

どう死ぬのか(死の準備するか)ということ。よく生きるということ。そして魂のこと。

そこから私もだいぶ生き方が変わったと思う。

ただ母は私の前職が割と気に入っていたから、「実は転職したんだ」などと言ったら「え?、なんで!?」と少し説教される気もする。

果たして、自分の魂が身体から抜けた後には、母とそういう話ができるのだろうか。そしたら尽きない話がたくさんあるんだけどなー。

長文をお読みいただきありがとうございます。

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