「無関心」への 恐怖心。
よく言うやつあるじゃん、
私は結構これを信じている。
人のことを「嫌い」だと思う事って
大人になればなるほど、
減っているような気がする。
そのかわり増えているのが
「無関心」で、私も自覚アリ。
「嫌い」じゃなくて「無」
「知らなくて良い」「知る必要無い」になる。
好きとも嫌いとも思わない、
感情もエネルギーも使わない「無」の世界。
でも最近、『私、人に興味ないんだよね〜』
の一言に恐怖を感じるようになった。話。
個人の自由。多様に生きていきたい世界だ。
どう考えて、どう行動するかも
その人の勝手であり、自由であり、
その人の責任であると、、、、
それが行きすぎるというか極端の極端だと
周りを放置するような状態で
自分自身の考えも止めてしまうような感覚。
これが「無関心」かなと。
こっからは個人的な考えだけど、、
どれだけ人間関係 狭く深く を求めても、
どれだけ 1人 でいることが好きでも、
どれだけ「自分らしく」生きることに夢中でも、
どれだけ相手の「自分らしさ」を尊重したくても、
無関心は怖い。
人を知ろうとしなくなったり
好きや嫌いの感情を抱かなくなったり
どーでもいいや、勝手にしやがれ〜
なんて俯瞰してみる癖がつくと
自分の価値観や考えを狭めていて、
多様を受け入れているつもりが
多様 自体を知らない自分になり、
結局狭くてちっちぇ〜視野でしか
相手を捉えられなくなる、
そんな気がする。
なんにも知らないのに
なんでも受け入れている気に
なってるようなイメージ。
最近、自分自身でハッとしたことが
まさにこの「多様性」との関わり方だ。
どう考えるのか、どんな価値観があって
なにが「自分らしさ」なのかは
人それぞれの個性だよね!
でも、これが悪い方向に向くと、
自分には関係ないことだから
その人の人生だから
その人がよけりゃ良いんじゃない?
私も私がよければ良いんじゃない?
It's not my business だし
It's not your business なんよ。って。
その人と関わろうとしないし...
もちろん否定はしないけど、
知ろうともしない。
これ怖くない?伝わってる?
こうやって、
人との関わりを大切にしないで
個人が個人として生きることを適当に捉えて
「無関心」な自分が錬成されていく。
良くない。変えなきゃ。
相手を受け入れること以外にも大事なこと。
思い出した。
相手を知ろうとすること。(傾聴、共感)
相手と対話しコミュニケーションを取ること。
DIEの大切さ❕
自己理解と他己理解へのすすめ。
BEGINさまさまです。お世話になってます。
無関心になりそうになると
ブレーキをかけて一旦立ち止まって、
これじゃ無関心だ!
関心が無けりゃ好きにも嫌いにもなれない。
その人を知ることもできない。
そんなの面白くないじゃん〜!!
って復活させている。
そうすると次は、
相手を知ることが面白くなる。
人に優しくなれる。
柔軟性が30%ぐらい上がる。
質の良い人間関係が築ける(?)
あと何よりも、
周りも私も幸せになれる
気がする。
もちろん 苦手カモ....って人も
知れば知るだけいるけれど、
めげないで、もっともっと
関わるべきなんだろうなあと。
大人もぶつかりあったらいいじゃんね
言いたいことあるなら言えばいい。きっと。
そんな人になれるように
日々意識していきます。
言語化が難しくて曖昧だけれど、
ちょっとでも、『言いたいこと伝わった!』
ってなったらハート押してください〜。
余談。
最近、バイトで後輩育成を任されることが多いこともあって、もっと自分も成長したい、誇らしい先輩になりたいって、強く思うわけです。。
どうコミュニケーションを取るか
どうレクチャーするのが良いのか
周りはどう考えているのか
なんであの人はこう行動したんだろう、
次どんな行動を取るだろうか。。。。
自分が向こうの立場だったらどうだろうとか。
ずっと相手の立場に立ちまくって考えて
積極的に周りと関わろうとして、
どれだけ周りを思いやった
行動を取れるか選手権を
1人で開催したりしてる。
大雑把すぎて意味わからない文章になってるけれど、
この調子で
草食動物レベルの視野欲しいし
世界一のコミュ力欲しい。
でも、人見知り中度コミュ障の私が
ここまで人との関わりに意義を持ち
大切にしようとしているの、
本当に偉い。偉すぎる。
変わったなあ〜
また書きます🙏