感想「推し、燃ゆ/宇佐見りん」
推しという言葉が世の中に浸透して久しい。
もはやアイドル界隈だけの言葉ではなく、日常の私にもあなたにも気軽に推しはいるものだろう。
推しの話。芥川賞候補の話題作。キャッチーなピンクの表紙。気付いたら購入していた。以下感想。
なんというか、ただの「推しが炎上する話」ではなかった。推しの尊さを綴った話というよりは、ある少女が推しと共に人生を歩んだ話というか。
推しを賛同するようなものではなかった。
何もできないあかりにとっては推しを全力で推すことが生きる意味で生の実感で中心でいわゆる背骨。きっと真幸くんを推す、つまり解釈すること、受容すること、応援することは、自分自身をただただ肯定したかっただけのことなんだろうな。誰からも理解されない推し=自分だから。あかりの背骨は真幸くんだけど、それはあかりの中では仮の理想の自分だったんじゃないか。
でも真幸くんは自分ではない他人だから、背骨を中心に、自分の肉を削いでいくあかりは結局空っぽ。
他人のためだけに生きることに意味はあるのか?どれだけ推しても一方通行で見返りはない、何を発言するのか分かっていると思っていた真幸くんも最終的には解釈違いが起こった。あかりが死んでも、真幸くんは骨を拾ってはくれない。
私はあかりは変わっていけると思う。
なぜなら、綿棒を拾った、背骨を納めたから。推しの消失を受け止め、自分の背骨が抜かれたことを認めることができたから。自分の骨を自分で拾うことは自業自得の回収作業のように思えた。
中心でなく全体が世界ということは、やっとあかりは背骨じゃなく肉を意識できたということ。
四足歩行で歩んでいくのだろう。